ポーツマス条約
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年譜
いずれも1905年(明治38年)。調印7日後に太平洋間海底ケーブルについて契約が締結されている。
- 5月28日 - 日本海海戦が日本大勝利のうちに終わる。
- 5月31日 - 小村外相が高平駐米公使にあててセオドア・ルーズベルト米大統領に日露講和の斡旋を依頼するよう訓電。
- 6月1日 - 高平公使、ルーズベルト大統領に仲介の斡旋を依頼。
- 6月2日 - ルーズベルト大統領、高平公使の依頼を承諾。
- 6月9日 - ルーズベルト大統領、日露両国に対し、講和交渉の開催を正式に提案。
- 6月10日 - 日本、ルーズベルト提案を受諾。
- 6月12日 - ロシア、ルーズベルト提案を受諾。
- 7月7日 - 陸軍第13師団、南樺太に上陸。
- 7月8日 - 小村、渡米のため新橋停車場を出発、盛大に送迎される。陸軍第13師団、大泊を占領。
- 7月19日 - ウィッテ、サンクトペテルブルクを出発。
- 7月20日 - 小村、シアトルに到着。
- 7月24日 - 陸軍第13師団、北樺太に上陸。アレクサンドロフスク(現在のアレクサンドロフスク・サハリンスキー)を占領。
- 7月29日 - 桂太郎首相と来日中のウィリアム・タフト米陸軍長官が会談。桂・タフト協定を締結。
- 7月31日 - 樺太のロシア軍が降伏。樺太全島が日本軍政下に。
- 8月2日 - ウィッテ、ニューヨークに到着。
- 8月8日 - 日露両国の全権団がポーツマスに到着。
- 8月10日 - ポーツマス会議が始まる。第1回本会議。
- 8月12日
- 第2回本会議。
- 第二次日英同盟条約締結。
- 8月14日
- 8月15日 - 第4回本会議。
- 8月16日 - 第5回本会議。
- 8月17日
- 8月18日 - 第7回本会議。
- 8月19日 - ロシア皇帝ニコライ2世、ドゥーマ(第一国会)を召集する。
- 8月21日 - ルーズベルト米大統領、ニコライ2世あてに善処を求める親電を発信。
- 8月22日 - ルーズベルト米大統領、日本全権団に賠償金要求放棄を勧告。
- 8月23日 - 第8回本会議。ウィッテ、日本側妥協案を拒否。
- 8月24日 - 戸水寛人東京帝国大学法科大学教授、講和会議に反対する論文で休職になる(戸水事件)。
- 8月26日 - 第9回本会議。
- 8月28日 - 御前会議で賠償金、領土割譲に関し譲歩してでも講和条約締結を優先することを決定。小村全権に訓令。
- 8月29日 - 第10回本会議で日露講和成立。
- 9月1日
- 日露休戦条約を締結。
- 国民新聞を除く有力各紙が日露講和条約に反対する社説を掲載。
- 9月2日 -立憲政友会代議士会及び院外団有志、憲政本党政務調査会がそれぞれ政府問責決議と講和条約反対を決議する。
- 9月3日 - 大阪市公会堂をはじめとする全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開催される。
- 9月5日
- 日露両国、講和条約(ポーツマス条約)に調印。
- 日比谷焼討事件。
- 9月6日 - 東京市、東京府5郡に戒厳令、即日施行。内務大臣に治安妨害の新聞雑誌の発行停止権をあたえられる(勅令)(のち大阪朝日、東京朝日、万朝報、報知など発行停止を命じられる)
- 9月9日 - 小村寿太郎、腸チフスを発症。
- 9月11日 - 戦艦三笠、佐世保港内で火災のため沈没、死者339名を出す。
- 9月12日 - Commercial Pacific Cable Company と契約。ケーブルの敷設を分担。米企業側がグアム-小笠原間、日本側が小笠原-横浜間という共同事業。[39]
- 9月14日 - 大山巌満洲軍総司令官、全軍に戦闘停止命令。
- 9月21日 - 東大七博士、講和条約批准拒否の上奏文を提出する。
- 10月10日 - 日本、講和条約を批准。
- 10月14日 - ロシア、講和条約を批准。
- 10月16日 - 講和条約を公布。
- 10月27日 - 日本政府、韓国保護国化を閣議決定。
- 10月23日 - 東京湾で、海軍凱旋式による大観艦式挙行、艦艇200隻、観衆数万人。
- 10月30日 - ロシア、十月詔書(十月宣言)発布。
- 11月17日 - 第二次日韓協約。
- 11月29日 - 戒厳令、廃止。
- 12月2日 - 外交官・領事官官制改正公布(勅令。あらたに大使・大使館をおく)。駐英公使館を大使館に昇格(告示)。
- 12月21日 - 第二次日韓協約に基づき統監府を漢城に設置(初代統監伊藤博文)。
- 12月22日 - 日清両国、北京で満洲善後条約を締結。
注釈
- ^ ポーツマス造船所自体はメイン州に位置する。
- ^ 米露間の外交関係は、日米関係のそれよりも歴史が古く、アメリカとロシアはたがいに大使を派遣しあっていたが、日本とアメリカでは公使を派遣しあうにとどまっていた。
- ^ セオドア・ルーズベルトは「(日本への)同情が欠如している」として駐韓米公使の選任を変更したこともあるほどで、日本海海戦の際も一日中そのニュースだけを追い、ルーズベルト自身「私は興奮して自分の身はまったく日本人と化して、公務を処理することもできず終日海戦の話ばかりしていた」と、その日のことを振り返っている[6]。
- ^ 小村外相や長岡外史参謀次長はロシアとの講和条件を少しでも日本側に有利なものとするために講和会議に先立って樺太を占領すべきであると考え、長岡はこれを軍首脳に上申したが、海軍は不賛成で参謀総長山縣有朋もこれに同意しなかった。そのため長岡は満洲軍の児玉源太郎に手紙を書いて伺いを立て、その返信を論拠に説得作業を展開、樺太攻撃を決めた。ロシアは講和の準備中での日本軍の軍事作戦に怒ったが、ルーズベルトは黙認した[8]。
- ^ 伊藤博文はロシアと戦うことに対しては終始慎重な態度をとり続け、「恐露病」と揶揄されることさえあった。1901年11月、伊藤が自ら単身モスクワ入りして日露提携の道を探ったことが、逆にロシアとのあいだでグレート・ゲームを繰り広げていたイギリスを刺激する結果となり、翌1902年1月の日英同盟締結へとつながったことはよく知られている[10]。
- ^ ロシア軍は伝統的に攻めには弱い一方、守りに強く、持久戦になれば地勢的な縦深性や厳しい気候上の特性(バートラム・ウルフによれば「距離将軍」「冬将軍」)を活用して侵入者の兵站ラインを遮断して反撃に転じる。19世紀初頭のナポレオン・ボナパルトや後世のアドルフ・ヒトラーなども、このロシアの戦術により、結局は敗退している[17]。
- ^ 小村の表敬訪問の際、「大統領はなぜ日本に対して好意をお持ちですか」という質問に対し、ルーズベルトは英訳の『忠臣蔵』を示したといわれる[21]。
- ^ このことは、日本国内でも条約締結後の10月に「小村の新聞操縦の失敗」として『大阪朝日新聞』で批判記事が掲載された[24]。
- ^ ポーツマス市は、小村壽太郎の出身地である宮崎県日南市とは姉妹都市の関係にある。
- ^ ポーツマス講和会議に関するフォーラムの開催やホテルの保存運動に尽力したニューハンプシャー日米協会会長のチャールズ・ドレアックに対し、日本政府は2011年6月、日米の友好親善に寄与したとして旭日小綬章を授与している[35]。
出典
- ^ a b c d e f "ポーツマス条約". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2021年1月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 永峰 2001, pp. 29–37
- ^ a b c 猪木 1995, pp. 53–56
- ^ a b 若狭和朋『日露戦争と世界史に登場した日本 : 日本人に知られては困る歴史 』2012, ISBN 9784898311899
- ^ 国際派日本人養成講座「地球史探訪:ポーツマス講和会議」
- ^ 永峰 2001, p. 34
- ^ a b 藤村 2004
- ^ 隅谷 1974, pp. 309–310
- ^ a b 黒岩 2005, pp. 9–10
- ^ 黒岩 2005, p. 10
- ^ a b c d e f g h i j 黒岩 2005, pp. 8–9
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 猪木 1995, pp. 56–62
- ^ a b 高田(1994)pp.362-363
- ^ a b 麻田(2018)pp.141-143
- ^ 古屋(1966)pp.29-30
- ^ a b c d e 黒岩 2005, pp. 12–13
- ^ 木村 1993, p. 69
- ^ a b c 『日露戦争特別展II 開戦から日本海海戦まで』「政治・外交(解説を読む)ポーツマス会議開始」(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
- ^ 半藤 1983, pp. 106–109
- ^ 隅谷 1974, p. 311
- ^ 猪木 1995, p. 57
- ^ a b c d 黒岩 2005, pp. 13–14
- ^ a b 長山 2004, pp. 170–174
- ^ 黒岩 2005, p. 9
- ^ a b c d e f 片山 2011, pp. 172–173
- ^ a b c d 半藤 1983, pp. 109–111
- ^ a b c d 読売新聞取材班 2010, pp. 253–256
- ^ a b 黒岩 2005, pp. 14–15
- ^ a b c d 和田春樹 2002, pp. 265–267
- ^ a b c d e f g 木村 1993, pp. 67–72
- ^ a b 長山 2004, pp. 174–181
- ^ a b c d e f 半藤 1983, pp. 115–118
- ^ 猪木 1995, p. 66
- ^ 隅谷 1974, pp. 321–323
- ^ チャールズ・B・ドレアック・ニューハンプシャー日米協会会長,旭日小綬章を受章 在ボストン日本国総領事館、2020年10月14日閲覧
- ^ ポーツマス市で多彩な行事/日露講和条約の調印記念日(四国新聞社)
- ^ “一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問主意書” 2011年3月21日閲覧。
- ^ “衆議院議員鈴木宗男君提出一九五六年の日ソ共同宣言などに関する質問に対する答弁書” 2011年3月21日閲覧。
- ^ アジア歴史資料センター B04011009100
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