ウィッテ【Sergey Yul'evich Vitte】
セルゲイ・ウィッテ
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セルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテ(ロシア語: Серге́й Ю́льевич Ви́тте, ラテン文字表記例:Sergei Yul'jevich Witte, 1849年6月29日(ユリウス暦6月17日) - 1915年3月13日(ユリウス暦2月28日))は、帝政ロシア末期の政治家。セルギウス・ウィッテの名でも知られ、姓はヴィッテとも表記される。
注釈
- ^ シベリアに鉄道を敷設しようという議論は19世紀半ばすぎの世界的な「鉄道ブーム」の時代からあるにはあったが、人口希薄で広大なシベリアに数千キロメートルにおよぶ鉄道を建設するのは確かに非現実な話でもあった[21]。それが現実性を増したのは西欧列強による東アジアへの進出であり、将来この鉄道が東西貿易の基軸となることを主張したウィッテでさえも、計画当初は主として軍事的・政治的意味合いが大きいことを認めていた[21]。
- ^ 起工式の約2週間前の1891年5月11日、皇太子ニコライは滋賀県大津で巡査津田三蔵の襲撃を受けて負傷する大津事件が起こっている[20]。
- ^ 皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)はしかし、この種の公務は自分の性に合わないと感じており、また、あまり得意でもなかった[27]。
- ^ マクドゥーガルは、蔵相時代のウィッテについて、全鉄道体制の「ツァーリ」と形容している[23]。
- ^ 1890年代の金融市場は資本が豊富であり、ウィッテはフランスから低利で借り入れた資金でロシア国内の負債を返済したのみならず、それにより10億ルーブルもの投資資金を捻出した[23]。
- ^ ただし、ウィッテの外資導入策はつねに絶えず批判が繰り返された[30]。代表的な批判者に週刊新聞「ロシアの勤労」主筆のシャラーポフがおり、ウィッテによる工業化の成果を批判し、外資導入と急激な工業化に反対した[30]。また、ウラル資本を代表するマトヴェーエフがこれに加わった[30]。シャラーポフが宮廷にはたらきかけた結果、1899年初めには皇帝ニコライ2世が外国資本に反対の意見を述べたのに対し、ウィッテは科学者ドミトリ・メンデレーエフに意見書を書いてもらい、そのうえで自らの意見書を提示した[30]。ウィッテは外資導入必要論を穀物商業改善委員会の場で唱え、世論に訴えた[30]。このときはムラヴィヨフ外相がウィッテを支持したため、大勢を制することができた[30]。ウィッテが、自身の路線を推し進めることができたのは、この1899年の論争で勝利したからである[30]。
- ^ 鉄道建設の現場労働者の多くは徒刑囚であったが、ウィッテは通常の賃金が支払われるべきと主張し、減刑も約束した[23]。
- ^ 露清密約は、日露戦争中の1904年5月13日、清朝初代総理大臣の慶親王奕劻によってその存在が暴露され、5月18日、清国によって破棄された。
- ^ ただし、三国干渉と旅順占領とのあいだに絶対的な違いがあるかといえば、「ない」という見解もあり、ウィッテが回想録に記した自己弁護を全面的に信じることについては慎重であらねばならない[40]。
- ^ ムラヴィヨフの突然死の原因は、彼が「中国の危機」についてウィッテから以前の行動を非難された直後のことであったため、自殺だったのではないかという風評も一時流れた。
- ^ ベゾブラーゾフは、1903年6月に設立された鴨緑江木材会社の責任者であり、鴨緑江流域に利害関係をもっていた[70]。
- ^ 日本側はその代償として、ロシアが清国より既に得ていた吉林・長春間鉄道(吉長鉄道)の敷設権の譲渡を受けた[91]。
- ^ マクドゥーガルは、「ともあれ、和平はまとまった。ウィッテを除いて、だれ一人喜ばない和平だったが。」と記している[96]。
- ^ 一方、ドイツ帝国政府にあっても、帝国宰相のベルンハルト・フォン・ビューローやテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークはヨーロッパ内だけの攻守同盟では、ドイツのみ労多くしてロシアにとっては安逸なものであるとして反対意見を表明した[97]。
- ^ 1917年の皇帝退位でさえ、このときの要求に同意することほど大きな恥辱とは考えられなかったという[104]。
- ^ ラスプーチンもまた、第一次大戦の参戦には反対の立場をとった。
- ^ ただし、ニコライ2世も当初はウィッテを重用していた[119]。ニコライはストルイピンについても、当初は彼を重用していたが、ストルイピンの自主性や個性が発揮されると、そこに不快感を示し、彼に対してきわめて冷ややかな態度をとっている[119]。
- ^ この4人は、コリス・ポッター・ハンティントン、マーク・ホプキンズ・ジュニア、リーランド・スタンフォード、チャールズ・クロッカーで、セントラル・パシフィック鉄道を創設し、しばしば「ビッグ・フォー(英語: Big 4)」と称せられる →記事「ビッグ・フォー・ハウス」参照。
出典
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- 1 セルゲイ・ウィッテとは
- 2 セルゲイ・ウィッテの概要
- 3 旧宅・墓所
- 4 大衆文化での描写(演じた俳優)
- 5 外部リンク
セルゲイ・ウィッテ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 15:10 UTC 版)
「遙か凍土のカナン」の記事における「セルゲイ・ウィッテ」の解説
元ロシア帝国首相。クロパトキンの紹介でナボコフの居場所と失脚に至るまでの長い愚痴を聞かせた。
※この「セルゲイ・ウィッテ」の解説は、「遙か凍土のカナン」の解説の一部です。
「セルゲイ・ウィッテ」を含む「遙か凍土のカナン」の記事については、「遙か凍土のカナン」の概要を参照ください。
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