その後の生活
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2009年(平成21年)6月15日、日本相撲協会を定年退職した。かつての人気力士の定年とあって、テレビの情報番組などで大きく特集が組まれ、現役時代の映像も多く流された。同年5月場所限りで現役を引退した弟子の潮丸が、師匠の退職と同時に「東関大五郎」を襲名し、東関部屋を継承した。その際に「もう一度ハワイの力士を育てたい」と語った。また、「一番の思い出は曙が横綱になったことかな。師匠としては最高の瞬間だったし、今でも誇りに思う」とも語った。 同年に開かれた定年を祝う会では、麻生太郎首相(当時)とバラク・オバマ大統領(当時。ハワイ出身)から祝電が届いた。髙見山の定年退職を受け、アメリカ合衆国下院は2009年6月15日に彼の日本相撲界への貢献と日米親善に尽くした功績を称え、本会議で異例の感謝決議を行った。同年10月に第57回菊池寛賞の受賞が発表され、スポーツ関係者の受賞は2001年のイチロー以来で大相撲関係者としては史上初の受賞となった。また同年12月にはスポーツ功労者に選ばれている。 定年退職後も単発でテレビ出演を行っている。 2017年のインタビューでは、テレビで東関部屋の力士を応援する一方、スポーツジム通いも日課、とされている。本人はそのインタビューで「プールに入ったり、自転車こいだり。体重が130キロ台に減りました。ジムのサウナでよく話しかけられます。『テレビで名前出てたよ』って。今でも覚えてもらっているのは光栄なこと。相撲をしてきてよかったって思いますよ」とコメントしている。 2019年12月13日、13代東関を襲名し部屋の師匠となっていた潮丸が41歳の若さで逝去した。その夜、葛飾区に移転していた部屋に弔問し、通夜・葬儀にも参列した。「まだ若い。こういうことになって…。これからですよ。もう少しいてほしかった」と早逝した弟子を悼んでいる。 2020年2月6日には日本相撲協会の諮問機関である「大相撲の継承発展を考える有識者会議」に招かれ、大相撲の国際化についての議論に加わった。「言葉を教えるのが一番大事。相撲の基本も大事。わたしは30歳前にハワイへ帰ろうかと思った。結婚して、子どもができて、日本で頑張ろうと思った。慣れるまで15年かかった」と自らの経験を語り、「国際化を進める上でも、国技であることを忘れてはいけない」と訴えたという。会合の後に取材に応じ、「基礎が大事。野球でも同じだと王さんも言っていた。今の力士はケガが多い。番数が足らない。30、40番はやってほしい」と話した。 2021年5月30日、華王錦の断髪式を旧東関部屋の自宅で行い、入門時の師匠として止めばさみを入れた。華王錦の引退時、葛飾にあった東関部屋が同年3月場所後に消滅し二子山部屋が転入したためその建物で断髪式がかなわず、「最後の弟子だから、私が責任を持って(まげを)切るよ」と申し出てのことであったという。
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その後の生活
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「デイビッド・グレッグ」の記事における「その後の生活」の解説
グレッグは1865年1月25日付けの次の手紙で除隊した。 戦場でポトマック軍の騎兵隊を指揮し、3年間以上に亘って間断なく従軍してきた私はこの度、私個人の注意が個人的な義務や事業に向けられるよう自宅に居続ける避けられない必要性があり、軍務から退役するためにこれ以上行動を引き伸ばせない。 グレッグが終戦前に退役した本当の理由は歴史に埋没した。アポマトックス方面作戦での興奮させる騎兵戦には参加しなかった。グレッグは妻の故郷であるペンシルベニア州レディングに落ち着いた。デラウェア州ミルフォードの近くで農園を営んだが、その生活は退屈であり、明らかに軍を離れたことを後悔した。1868年、再就役を申請したが、望んでいた騎兵指揮官の職は従兄弟であるジョン・アービン・グレッグに渡り、不幸な文民生活に留まった。1874年、グラント大統領からオーストリア=ハンガリー帝国のプラハ駐在アメリカ領事に指名されたが、妻がホームシックに罹ったために間もなく帰国した。 グレッグは州と地元の事情に関わり、国家的聖地としてバレーフォージを保存する資金を集めた。ゲティスバーグの戦場跡を何度も訪れ、行事があるときは演説した。1891年、政界活動を行い1期だけペンシルベニア州の会計検査院長官に選ばれた。 グレッグは州内の南北戦争生き残りとしては最長老の一人としてレディングで死に、そこのチャールズ・エバンス墓地に埋葬されている。レディングでは青銅の騎馬像で記念されており、アメリカン・リージョンのポストとしてその栄誉を称えて「グレッグ・ポスト」がある。
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その後の生活
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「ローレンス・ウェザビー」の記事における「その後の生活」の解説
クレメンツもウェザビーも次の知事としてバート・コームズを支持した。ウェザビーは1951年にコームズをケンタッキー州控訴裁判所判事に指名し、ロイ・ヘルム判事の死去による穴を埋めていた。クレメンツの仇敵ハッピー・チャンドラーが予備選挙でコームズに対抗して出馬し、コームズをクレメンツとウェザビーを嘲笑的に呼んだあだ名である「クレメンタイン」と「ウェザーバイン」の傀儡と批判した。実際にチャンドラーは選挙戦をコームズに対してではなく、クレメンツとウェザビーを対象にして仕掛けていた。クレメンツとウェザビーの政権で金の遣い過ぎを告発した。チャンドラーの言に依れば、クレメンツは自分の事務所に2万ドルの絨毯を購入しており、ウェザビーはアフリカ産マホガニー材で事務所の壁を貼らせた。チャンドラーは当選すれば、事務所には「良き正直なケンタッキー州の木材」を使用し、全州民を議事堂に招待して2万ドルの絨毯の上を歩かせると約束した。最終的に納品書を調べれば、2万ドルの絨毯をクレメンツが購入した事実は無く、ウェザビーの壁材も地元の業者から購入し、貼らせていた。チャンドラーの告発が不正確なものだったが、効果はあった。チャンドラーが予備選挙でコームズを破り、本選挙でも当選した。 ウェザビーは知事の任期が明けた後に、自営の法律実務を再開した。1956年、アメリカ合衆国上院議員アルバン・W・バークリーが心臓発作で急死した。これによりケンタッキー州は2人の上院議員を同時に選ぶ必要が生じた。クレメンツの任期があけ、バークリーの議席が空席ということだった。アイゼンハワー大統領は元上院議員でインド大使のジョン・シャーマン・クーパーを説得して共和党の候補者とさせ、州内でのクーパーの大きな人気がアイゼンハワー自身の再選に効果をもたらすことを期待した。バークリーの死は民主党が予備選挙を終えた後のことであり、候補者の選定に選挙を使えない時期だった。民主党州委員会が、州知事の人気を終えてからまだ半年だったウェザビーを選定した。 ウェザビーもクレメンツもチャンドラー知事からの支持を得られなかった。さらに加えてアメリカ合衆国上院院内総務リンドン・B・ジョンソンが選挙戦中に心臓発作を起こし、院内総務補だったクレメンツが院内総務の仕事を引き継いで多忙となり、選挙戦がおろそかになった。クレメンツが州内にいる時は、自分にとって元副知事だったウェザビーのために選挙運動を行った。100万票以上が投じられた選挙で、クーパーは65,000票差でウェザビーを破り、クレメンツは7,000票差でサーストン・バラード・モートンに敗れた。クレメンツにとっては30年ぶりに選挙で敗れることになり、ケンタッキー州民主党にとっては16年振りに再度上院議員のいない時期を経験することになった。 この落選に続いてウェザビーはフランクリン郡に移転し、昔の政敵であるビル・メイからの支援でブライトン・エンジニアリングの役職に就いた。1964年から1966年、ケンタッキー州憲法を改定する会議の代議員になった。1965年、ケンタッキー州上院議員選挙に出馬して、メイの支持を得た。ウェザビーはチャンドラーお気に入りの候補者を破ってこれに当選し、1966年から1968年まで上院議長代行に選ばれていた。その采配は大変効果的だったので、1966年度州予算は僅か10日間議論され、31対5の票決で、ほとんど提出されたままの案が通った。 ウェザビーは州上院での任務を終えた後、ブライトン・エンジニアリングに戻り、最後は副社長にもなった。ウェザビーは腰を痛めた後の合併症が原因で1994年3月27日に死去した。フランクフォート墓地に埋葬されている。西ケンタッキー大学管理棟と、モアヘッド州立大学体育館はウェザビーの栄誉を称えて名付けられている。
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その後の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:35 UTC 版)
1971年予備選挙の後、コームズは政界から引退し、法律実務を再開して、フランクフォートの事務所を維持した。大手石炭会社の代理人を務め、地元環境保護運動家や作家ハリー・M・コーディルの怒りを買った。コーディルはコームズが力の無い者の味方と主張しているが、実際には力のある者の味方をしていると批判した。コームズは田園家屋と開発会社の結成に活躍し、高等教育委員会の委員を務めた。またジミー・カーター大統領の銃規制と武装解除に関する一般諮問委員会委員も務めた。 コームズの2度目の結婚も1986年5月19日に離婚で終わった。1988年12月30日、法律業務のアシスタントだったサラ・ウォルターと3度目の結婚をした。
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その後の生活
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「アデルバート・エイムズ」の記事における「その後の生活」の解説
エイムズは辞職した後で短期間ミネソタ州ノースフィールドに移り、そこで父や兄弟のやっていた小麦製粉業に合流した。そこに住んでいる間の1876年、ジェシー・ジェイムズとその元南軍ゲリラの一党が町の銀行に押し入ったが失敗した。その銀行にはエイムズ家が投資していることが強盗の大きな理由だった。エイムズはその後ニューヨーク市に移り、さらにマサチューセッツ州ローウェルで製粉業や他の事業の役員となった。 1898年、エイムズは志願兵の准将に指名されて米西戦争のキューバで戦った。その後数年経って、ローウェルでの事業から引退した。その寡生活から書簡が集められて『19世紀の年代記』が1957年に死後出版され、娘のブランチ・エイムズ・エイムズ(彼女は別のエイムズ家の者と結婚した)は伝記『アルバート・エイムズ』を1964年に出版した。 エイムズはフロリダ州オーモンドビーチで友人のジョン・ロックフェラーの敷地に隣り合わせにあった冬の家で、1933年に97歳で死んだ。その死のときに少なくとも南北戦争に従軍した最後の将軍になっていた。息子のアデルバート・エイムズ・ジュニアは高名な科学者となり、娘のブランチ・エイムズ・エイムズは著名な婦人参政権論者、発明家、芸術家および著作家になった。ブランチは父の伝記を著した。彼女が設計して建てた邸宅は現在マサチューセッツ州のボーダーランド州立公園の一部となっている。曾孫にはジャーナリストのジョージ・プリントンがいる。エイムズはローウェルのヒルドレス墓地にある義母の家族墓所に埋葬されている。19世紀最大の貨物船のスクーナーガバナー・エイムズ号はエイムズに因んで名付けられた。 ジョン・F・ケネディはジョージ・プリントンを通じて間接的にエイムズ将軍の伝記全文に関与した。『勇気の側面』の中でケネディはエイムズのミシシッピ統治に関する短期間だが衝撃的な姿を生み出すためにジム・クロウ法時代の歴史の文章に頼った。エイムズの娘のブランチはマサチューセッツ州で厄介な人物であり、その叙述に付いて苦情を述べた手紙を当時のケネディ上院議員に送りつけ、ケネディがホワイトハウスに入ってからも攻撃を続けた。ケネディ大統領は友人のプリントンを通じてその祖母であるブランチに彼女が「国の事業を妨害している」と伝えさせた。ブランチの回答はその父についての著書を書くことだった。『勇気の側面』が出版されてからの時代に歴史観が変わり、ミシシッピ州の政治家としてエイムズの役割はより好意的に見られるようになっている。
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その後の生活
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「アレクサンダー・ヘイグ」の記事における「その後の生活」の解説
ヘイグはテレビ・プログラム「ワールド・ビジネス・レビュー」のホストを数年間務めた。21世紀ビジネスのホストを務め、ビジネス・ソリューション、専門家のインタビュー、時事解説及び現場レポートを含むビジネス教育講座を週1回で流した。コーカサスにおける平和アメリカ委員会ではズビグネフ・ブレジンスキーやスティーブン・J・ソラーズと共にヘイグが共同委員長であり、近東政策に関するワシントン諮問会議の一員でもある。アメリカ・オンラインを設立したときは、理事会の一員だった。2006年1月5日にヘイグは元国務長官と元国防長官の会合に参加して、ブッシュ政権とアメリカ合衆国の外交政策を話し合った。2006年5月12日に2回目の元アメリカ合衆国国務長官と元アメリカ合衆国国防長官10人の会合がホワイトハウスで開催されヘイグも出席した。この会合ではドナルド・ラムズフェルドとコンドリーザ・ライスによる状況説明があり、その後ジョージ・W・ブッシュ大統領との議論があった。 1992年にヘイグは『インナー・サークルズ:アメリカが如何に世界を変えたか』と題する自叙伝を出版した。 2010年2月20日にヘイグはメリーランド州ボルチモアの病院で死去した。85歳であった。
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