釈宗演 釈宗演の概要

釈宗演

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/07 22:38 UTC 版)

釈宗演
1860年 - 1919年
諡号 窟号楞伽窟
生地 若狭国
没地 鎌倉
宗派 臨済宗
寺院 鎌倉円覚寺
洪川宗温福澤諭吉
弟子 植村宗光[注釈 1][1]鈴木大拙釈宗活夏目漱石古川尭道千崎如幻
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日本人の僧として初めて「」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として、よく知られている。

生涯

出生から妙心寺時代

1860年1月10日(旧暦 安政6年12月18日)、現在の福井県大飯郡高浜町農家に生まれた[2]。一瀬吾右衛門の二男で、幼名は常次郎。幼児から峻烈豪放で、人に下るということを好まなかった[2]

1870年、10歳(数え年で12歳)の時、一瀬家の親戚筋に当たり福井県出身である京都妙心寺天授院の越渓守謙が帰郷し、越渓の母の92歳の祝いを終えて京都に帰る際、兄の勧めにより、常次郎は僧侶になるべく越渓に預けられた[注釈 2]

常次郎は越渓のもとで得度した。越渓はその頃、天授院に僧堂を開単した頃であった。妙心寺山内に「般若林」という学林ができたため、そこに通って漢籍や禅籍の素読などを学んだと伝わる。

千葉俊崖 西山禾山 中川大宝 儀山善来

1873年建仁寺塔頭の両足院の千葉俊崖師に就き、学問と修行に励む。ここで後に建仁寺派管長となる竹田黙雷と知り合う。その後黙雷とは知友となる。しかし1875年に俊崖師が遷化して建仁寺山内の「群玉林」での学林生活は終わった。

1876年、師匠の越渓の命令で愛媛県八幡浜の大法寺に行き、越渓の法嗣弟子西山禾山について修行をするが、僅かな日数で挫折して、その後、越渓の許可を得て滋賀県三井寺の中川大宝律師に就き倶舎論を研究する。この三井寺での勉学中に、当時阪上真浄(後の臨済宗大学初代学長)が住職をしていた、永雲寺(大徳寺派)に1年ほど滞在した。その縁もあり、後に宗演は臨済宗大学(後の花園大学)第二代学長となった。

1877年、再び越渓の命を受けて、備前岡山の名刹・曹源寺の儀山善来に就き修禅することとなった[3]。儀山善来は、宗演の得度師匠である越渓守謙、そして円覚寺で替わって師匠となった今北洪川の二人の師匠でもあった。宗演が師事した頃、既に儀山善来は76歳の老境であったが、提唱および参禅の指導を受けたのである。

師の今北洪川 印可証明 福沢諭吉の慶応 セイロン

1878年、宗演は秋に鎌倉円覚寺今北洪川に参じて修行。それから5年後の1883年、洪川は宗演に「若の演禅士、力を参学に用いること久し。既に余の室内の大事を尽くす、乃ち偈を投じて、長時苦屈の情を伸暢す。老僧、祝著に勝えず。其の韻を用いて即ち証明の意を示す」と題した印可証明の偈をおくっている。宗演が満23歳の時である。

1884年、宗演は鎌倉円覚寺内にある北条時宗公を祀る塔頭寺院、仏日庵の住職となり、神奈川県横浜市永田にある寶林寺で『禅海一瀾』を提唱した。

1885年慶應義塾に入った。慶應へ行くことに洪川は反対したが、鳥尾得庵等の助けもあり、なんとか入学した。ここで福沢諭吉とも緑が出来、親交は長く続くこととなった。

1887年、慶應義塾別科で学んだあと、セイロン(現在のスリランカ)に行って仏教の原典を学ぼうとした。当時のセイロン行きは文字通りの命がけであった。これにも洪川は猛反対したが、山岡鉄舟福沢諭吉等の助けもあり、セイロン行きを敢行した。渡航に関して、福沢諭吉からは「汝道に志す、よろしくセイロンに渡航して源流を遡るべく、志や翻すべからず」と勧められ、山岡鉄舟には「和尚の目は鋭過ぎる、もっと馬鹿にならねばいかん」と言われた。そして1887年3月31日、コロンボに到着。パーリ語を学び、僧院で修行し、同年5月7日に沙弥として出家。パンニャーケートゥの法名をもらい、セイロンの袈裟に着替え、1889年10月に帰国した。 セイロン滞在中の1889年に『西南之仏教』を刊行。そのなかで北方仏教南方仏教という二分法を、東北仏教と西南仏教、さらに小乗仏教大乗仏教と言い換えた[4]。セイロン、シャム、ビルマ、カンボジアを小乗、支那、朝鮮、蒙古、満洲、韃靼、西蔵等を大乗仏教としている。

円覚寺派管長 万国宗教会議

1889年、帰国後に永田寶林寺道場に於いて、初めて師家として修禅者を指導する[3]

1892年1月16日に師匠の今北洪川が遷化。これに伴い、宗演は塔頭仏日庵住職を辞して円覚寺に住し、円覚寺派の公選により、満32歳の若さで円覚寺派管長並びに円覚寺派専門道場師家に就任する。

シカゴ万国博覧会 (1893年)の一環として開催された万国宗教会議に臨済宗の代表として出席することになり、福沢諭吉の賛助も得て、無事に資金も調達して8月に横浜を発ち、十数日の船旅でバンクーバー (ワシントン州)に到着した。会議は9月11日から17日間行われた。宗演は2回にわたり演説し、第1回の演説は「仏教の要旨並びに因果法」と題して、仏陀の教えの基本は因果の法であると説いた。宗演の演説を聞いた著名な仏教学者、ポール・ケーラス(アメリカの哲学者で仏教研究家)が深く感銘を受けたことが縁となり、宗演が帰国した後にケーラスは「英語に堪能な者を派遣して欲しい」と依頼した。そこで宗演は修行していた居士鈴木大拙を渡米させた。大拙はその後、ケーラスの下で翻訳等の仕事を手伝うことになった。

1902年、シカゴ万国宗教会議において通訳を務めた野村洋三の紹介によって、サンフランシスコの実業家アレクサンダー・ラッセルの妻アイダ[5]と、その友人ら一行が円覚寺を訪ね、山内の正伝庵に滞在しながら宗演に参禅することとなった。外国人が来日して参禅するのはこれが初といわれる。帰国するまでの間、一行は熱心に参禅したという。翌年の1903年には、建長寺派全派の要請により管長を兼務することとなる。1904年日露戦争が勃発。宗演は建長寺派管長の資格を以て第一師団司令部に従属し、満州に従軍布教をなす。

東慶寺そしてルーズベルトとの会見 各国歴訪

1905年、円覚寺派管長職と建長寺派管長職を共に辞して、鎌倉の円覚寺派の東慶寺の住職となる。この時、円覚寺派の管長に就任したのは、宗演の円覚寺修行時代の兄弟子である宮路宗海(相国寺荻野独園の法嗣)であった。宗演は、以前来日して宗演に参禅していたアイダ・ラッセルの勧めもあり、6月に通訳として鈴木大拙、侍者として千崎如幻を伴い再び渡米した。サンフランシスコのラッセル邸に約9ヶ月滞在し、の指導をすることになった。アイダは禅の実践を学んだ初めてのアメリカ人となった[6]

1906年、サンフランシスコで新年を迎え、その後、代理公使日置益とともにワシントンでルーズベルト大統領と会見[7]鈴木大拙の通訳を介し、世界平和について語り合ったといわれる。そしてアメリカからの帰りには足を延ばし、ロンドンでは大倉組門野重九郎に会い、ほか欧州各都市、スリランカ、インドなどアジアを歴訪し、香港にも立ち寄って、翌年の1906年8月に帰国した。同年11月には、徳富蘇峰野田大塊、早川雪堂らによって「碧巌会」が結成され、多くの名士が毎月、宗演の碧巌録提唱に聞き入った。

二度目の円覚寺管長から遷化まで

1911年朝鮮を約1ヶ月巡錫、翌年には満洲を巡錫、さらに1913年には台湾を巡錫した。1914年、臨済宗大学(後の花園大学)第二代学長に就任。1917年まで学長を務めた。

1916年、円覚寺派管長に再び選ばれた。この時は法嗣弟子の古川堯道を僧堂師家に任じて、自らは管長職のみ務めた。同年10月、『碧巌録』を講了したので碧巌会を閉じた。12月9日には弟子である夏目漱石の葬儀の導師を引き受けた。戒名も宗演が授けている。1917年には中華民国を約3ヶ月にわたって巡錫した。

1919年肺炎のため遷化。世寿61[8][9][10][11][12]

釈宗演の法嗣

  • 古川堯道(堯道慧訓) 第6・8代円覚寺派管長
  • 棲梧寶嶽(寶嶽慈興) 第9代円覚寺派管長
  • 太田晦厳(晦厳常正) 第7代円覚寺派管長、第8代大徳寺派管長
  • 間宮英宗(英宗義雄) 第2代方広寺派管長
  • 釈大眉(大眉敬俊) 第4代国泰寺派管長
  • 釈宗活(輟翁宗活) 弟子に後藤瑞巌がいる
  • 円山慧勘(太嶺慧勘)
  • 大亀宋達

  1. ^ 植村宗光(うえむら そうこう、1875-1905)。俗名植村貞造。新潟県古志郡(のちの栃尾市)出身。長岡学校第一高等学校、東京帝国大学文科哲学科卒。一高在学中の1894年2月頃下谷の廣德寺で勝峰大徹の臨済録提唱に接し、その後、数学教授北条時敬の紹介で、横浜永田村寶林寺に圓通和尚を訪ね、1901年1月鎌倉の宗演の下で得度し、1903年8月円覚寺三等教師に命ぜられるなど修行中であったが、同年末腸チフス罹患後静養中に日露戦争勃発。大学卒業後、1899年12月には近衛歩兵第三聯隊第八中隊へ入隊、1902年3月には陸軍歩兵少尉に任ぜられており、1904年11月に越後村松歩兵第三十聯隊へ召集され、さらに1905年2月中尉となって満州軍総司令部附きとなり、奉天会戦後の満州義軍に参加。軍副総統兼機動隊統領となるが、1905年8月30日、満州通化附近の熱水河子における激戦の中で重傷を負い露軍の捕虜となる。軍営中十日余りの間絶食し、死去。宗演は悲報を1906年1月サンフランシスコで聞くこととなった。同年3月叙勲六等授單光旭日章。遺稿集として、『禪劍遺稿』 釈敬俊編発行、1908年がある。
  2. ^ 『私は宗演の自伝「衣のほころび」を思い出した。 この出家というて、実は何の目的なぞあった訳じゃない。・・途中略・・兄が両親に迫って私を越渓老漢の弟子にしてもらうことにした。老漢は快く受けられて豪傑ものになる積りなら許すと言われた。私は何の深い考えもなかったけれども、高僧になれば天子様でも法の御弟子にすることが出来るということを平常兄から聞いていたので、それで出家の決心が出来た。いわば児童の好奇心じゃ。・・途中略・・皆の人が、「早く修行して大寺を持て」というた。唯兄は、「高僧になれ」といった。両親の贐言は、「達者で暮らせ」の片言であった。』 以上引用『釈宗演と明治』中島美千代著 ぷねうま舎、2018年5月 pp.12-13
  1. ^ 官報1906年5月29日、『真修養と新活動』 加藤玄智著 廣文堂書店、1915年 pp.452-461、『宗演禪師と其周圍』 長尾宗軾著 雄山閣、1923年 pp.135-138、『楞伽窟年次傳』 釋敬俊編纂 大中寺、1942年 p.72・p.80、『花田仲之助先生の生涯』 花田仲之助先生伝記刊行会、1958年 pp.80-86、『禪劍遺稿』 釈敬俊編発行、1908年所収の「履歴」、「予は如何にして禪に入りしか」
  2. ^ a b 『世界の偉人力の修養』樋口紋太著 岡本増進堂、1919年 pp.184-188(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月16日閲覧。
  3. ^ a b 『宗演禪師の面目』「師が經歴の一斑」長尾宗軾著 隆文館、1920年
  4. ^ 『西南之佛敎』、博文堂、1889年 p.41
  5. ^ Tait's at the Beach: The House of MysteryWoody LaBounty, Outsidelands.org, August 2003
  6. ^ "The Westminster Handbook to Women in American Religious History"Susan Hill Lindley, Eleanor J. Stebner, Westminster John Knox Press, 2008/01/01,p189 Russell, Ida Evelyn ("Mrs. Alexander Russell" 1862-1917))
  7. ^ 宗演 1907.
  8. ^ 『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」服部敏良吉川弘文館、2010年 p.14
  9. ^ 『楞伽窟年次傳』巻頭「楞伽窟年譜」釋敬俊編纂 大中寺、1942年 pp.1-8
  10. ^ 『明治の禅匠』「宗演禅師の生涯」井上禅定禅文化研究所編・発行、2009年 pp.297-319
  11. ^ 『明治の禅匠』「楞伽窟老師の思い出」朝比奈宗源禅文化研究所編・発行、2009年 pp.273-296
  12. ^ 『禅文化 250号』「釈宗演老師を思う」横田南嶺、禅文化研究所編・発行、2018年 pp.10-23
  13. ^ 『明治の禅匠』「宗演禅師の生涯」井上禅定、禅文化研究所編・発行、2009年 p.301


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