円覚寺派管長 万国宗教会議とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 円覚寺派管長 万国宗教会議の意味・解説 

円覚寺派管長 万国宗教会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:06 UTC 版)

釈宗演」の記事における「円覚寺派管長 万国宗教会議」の解説

1889年帰国後に永田寶林寺道場に於いて初め師家として、修禅者を指導する1892年1月16日師匠今北洪川遷化に伴い釈宗演塔頭仏日庵住職辞して円覚寺住し円覚寺派公選により、満32歳の若さ円覚寺派管長並びに円覚寺派専門道場師家就任するシカゴ万国博覧会 (1893年)一環として開催され万国宗教会議臨済宗代表として出席することとなり、福沢諭吉賛助得て無事に資金調達して8月横浜発ち十数日の船旅バンクーバー (ワシントン州)上陸した会議は、9月11日から17日間行なわれた。釈宗演は、二回にわたり演説し第一回演説は、「仏教要旨並びに因果法」と題して仏陀教え基本因果の法であると説いた。この釈宗演演説聞いた有名な仏教学者ポール・ケーラスアメリカの哲学者で仏教研究家)が深く感銘受けたことが縁となり、釈宗演帰国した後に、ケーラスは「英語に堪能な者を派遣して欲しい」と依頼したので、宗演は修行していた居士鈴木大拙渡米させ、鈴木大拙その後ポール・ケーラスの下で翻訳等仕事手伝うこととなった1902年シカゴ万国宗教会議において通訳務めた野村洋三の紹介によって、サンフランシスコ実業家アレクサンダー・ラッセルの妻アイダと、その友人一行円覚寺訪ね山内正伝庵滞在しながら宗演に参禅することとなった外国人来日してのこれが初めての参禅と言われ帰国するまでの間、一行熱心に参禅したという。翌年1903年には、建長寺派全派の要請により管長兼務することとなる。さらに1904年には、日露戦争勃発し建長寺派管長資格を以て第一師団司令部従属して満州従軍布教をなす。

※この「円覚寺派管長 万国宗教会議」の解説は、「釈宗演」の解説の一部です。
「円覚寺派管長 万国宗教会議」を含む「釈宗演」の記事については、「釈宗演」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「円覚寺派管長 万国宗教会議」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「円覚寺派管長 万国宗教会議」の関連用語

1
32% |||||

2
16% |||||

円覚寺派管長 万国宗教会議のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



円覚寺派管長 万国宗教会議のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの釈宗演 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS