円覚寺派管長 万国宗教会議
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「釈宗演」の記事における「円覚寺派管長 万国宗教会議」の解説
1889年、帰国後に永田寶林寺道場に於いて、初めて師家として、修禅者を指導する。 1892年、1月16日師匠の今北洪川の遷化に伴い、釈宗演は塔頭仏日庵住職を辞して、円覚寺に住し、円覚寺派の公選により、満32歳の若さで円覚寺派管長並びに円覚寺派専門道場師家に就任する。 シカゴ万国博覧会 (1893年)の一環として開催された万国宗教会議に臨済宗の代表として出席することとなり、福沢諭吉の賛助も得て、無事に資金も調達して8月に横浜を発ち、十数日の船旅でバンクーバー (ワシントン州)に上陸した。会議は、9月11日から17日間行なわれた。釈宗演は、二回にわたり演説し、第一回の演説は、「仏教の要旨並びに因果法」と題して、仏陀の教えの基本は因果の法であると説いた。この釈宗演の演説を聞いた有名な仏教学者ポール・ケーラス(アメリカの哲学者で仏教研究家)が深く感銘を受けたことが縁となり、釈宗演が帰国した後に、ケーラスは「英語に堪能な者を派遣して欲しい」と依頼したので、宗演は修行していた居士の鈴木大拙を渡米させ、鈴木大拙はその後、ポール・ケーラスの下で翻訳等の仕事を手伝うこととなった。 1902年、シカゴ万国宗教会議において通訳を務めた野村洋三の紹介によって、サンフランシスコの実業家アレクサンダー・ラッセルの妻アイダと、その友人ら一行が円覚寺を訪ね、山内の正伝庵に滞在しながら宗演に参禅することとなった。外国人が来日してのこれが初めての参禅と言われ、帰国するまでの間、一行は熱心に参禅したという。翌年の1903年には、建長寺派全派の要請により管長を兼務することとなる。さらに1904年には、日露戦争が勃発し、建長寺派管長の資格を以て、第一師団司令部に従属して満州に従軍布教をなす。
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