円谷と戦意高揚映画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 08:32 UTC 版)
東宝は戦時中、軍人教育用の教材映画、国威発揚のための戦意高揚映画の制作を行う。この背景には、当時のメディアが全て軍に支配されており、映画用の生フィルムも統制品であったことがある。「線画(アニメ)」を用いた教材映画は、コマ撮りであるためNG率が低かったため、フィルムをうかせてこれをNGとして計上し、別途特別配給を受け、戦意高揚映画ではない一般映画、娯楽映画にこれを回していたのである。『飛行理論』(1939年)や『水平爆撃理論編・実践編』(1940年)といった「教材映画」があってこそ、『エノケンの孫悟空』(1940年)や『川中島合戦』(1941年)などの娯楽映画も制作できたのである。 こうした事情から、東宝も万全の体制で軍協力映画の制作にあたり、円谷は必要不可欠な特撮技術者としてその陣頭指揮を執った。しかし、軍が協力するといっても「戦意高揚映画」制作は一筋縄ではいかなかった。 『ハワイ・マレー沖海戦』は、海軍省の至上命令で制作された映画であるが、円谷が航空母艦(空母)や戦闘機の資料写真を要求しても、「カツドウ屋など信用できるか」のひと言のもと、一切が機密扱いで提供を拒まれ、セットの資料にも事欠き、本編監督の山本嘉次郎も円谷も頭を抱えるような有様であった。しかもこの映画では、海軍を相手の完成試写の際に、甲板のセット(資料提供が受けられないため、アメリカの空母を参考に作った)に対して宮家の人間が激怒し、あわや公開差し止めとなりかけるという始末であった。円谷も山本もこのことを「はらわたが煮えくり返った」と述懐しており、山本は「誰がどうやってあの事態を収めて公開にこぎつけられたか、今でも分からない」と後に語っている。 そんな軍主導の映画制作であっても、円谷はあくまで特撮の技術向上に努め、ミニチュアワークを使用し娯楽要素を盛り込んだスペクタクル映画制作に徹している。 円谷はこうした「教材映画」「戦意高揚映画」への加担を理由に、戦後GHQによって公職追放処分を受けるが、戦後このことについて一切の言い訳をしていない。円谷にしてみれば、題材がどうあれ、ベストを尽くした仕事であり、そして、どのフィルムも、円谷が憧れた飛行機が活躍するのである。円谷の下で数々の教材映画に関わった鷺巣富雄は、「同じことをしたウォルト・ディズニーは戦後見返りに土地を提供され、ディズニーランドを建てた。ようするに、“勝てば官軍”なのだ」と語っている。
※この「円谷と戦意高揚映画」の解説は、「円谷英二」の解説の一部です。
「円谷と戦意高揚映画」を含む「円谷英二」の記事については、「円谷英二」の概要を参照ください。
- 円谷と戦意高揚映画のページへのリンク