有島武郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/29 14:47 UTC 版)
誕生 |
1878年3月4日 日本・東京府小石川 (現:東京都文京区) |
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死没 |
1923年6月9日(45歳没) 日本・長野県北佐久郡軽井沢町 |
墓地 | 多磨霊園 |
職業 |
小説家 評論家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 |
札幌農学校 (現:北海道大学農学部) |
ジャンル |
小説 評論 |
主題 | キリスト教人道主義 |
文学活動 | 白樺派 |
代表作 |
『お末の死』(1914年) 『カインの末裔』(1917年) 『小さき者へ』(1918年) 『生れ出づる悩み』(1918年) 『或る女』(1919年) 『惜しみなく愛は奪ふ』(1920年、評論) 『一房の葡萄』(1920年) |
デビュー作 | 『かんかん虫』(1910年) |
配偶者 | 神尾安子 |
パートナー | 波多野秋子 |
子供 | 森雅之(長男) |
親族 |
有島武(実父) 神尾光臣(義父) 有島生馬(実弟) 里見弴(実弟) 山本直良(義弟) 中島葵(孫) 有島重武(甥) 山本直純(姪孫) |
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学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道の札幌農学校に進学、洗礼を受ける。1903年に渡米。ハバフォード大学大学院を経て、ハーバード大学で1年ほど歴史、経済学を学ぶ。帰国後、志賀直哉や武者小路実篤らと共に同人「白樺」に参加する。1923年、軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。
代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論『惜しみなく愛は奪ふ』がある。
経歴
東京・小石川(現文京区)に旧薩摩藩郷士で大蔵官僚、実業家の有島武の長男として生まれる。母は幸子。祖父の宇兵衛も同じく郷士であった。武郎4歳の時、父の横浜税関長就任を機に一家で横浜に移る。父の教育方針により米国人家庭で生活。その後、横浜英和女学校(現青山学院横浜英和小学校)に通う。この頃の体験が後に童話『一房の葡萄』を生むことになる。
10歳で学習院予備科に入学し、寄宿生として過ごし、19歳で学習院中等全科を卒業する。その後、札幌農学校に入学。教授の新渡戸稲造から「一番好きな学科は何か」と問われ「文学と歴史」と答えたところ失笑を買ったという。内村鑑三や森本厚吉の影響などもあり、1901年(明治34年)にキリスト教に入信する。農業学校卒業後に軍隊生活を送った後に1903年8月25日、横浜から渡米。米国ではハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒しホイットマンやイプセンらの西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受ける。ヨーロッパにも渡り、1907年(明治40年)4月11日に帰国。この頃、信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れる。アナーキストの巨星であった大杉栄が海外に遠征した際に、黒百合会を主宰していた有島武郎は同志としてカンパをしたが、実はそれまでに大杉とは数回しか会ったことがなかった。
帰国後は再び軍務(予備見習士官)や東北帝国大学農科大学の英語講師として過ごしていたが、弟の生馬を通じて志賀直哉、武者小路実篤らと出会い、同人誌『白樺』に参加する。『かんかん虫』『お末の死』などを発表し、白樺派の中心人物の一人として小説や評論で活躍した。
1909年(明治42年)、東京にて陸軍少将の神尾光臣の次女神尾安子と結婚。
1911年(明治44年)、札幌で教職を務めていた時、長男
1916年(大正5年)に妻・安子(肺結核により平塚の杏雲堂で、27歳で没)と父を亡くすと、本格的に作家生活に入る。『カインの末裔』『生れ出づる悩み』『迷路』を書き、1919年(大正8年)には『或る女』を発表した。『中央公論』1918年7月に、新しき村を批判する評論「武者小路兄へ」を発表した。
しかし創作力に衰えが見え始め『星座』を途中で筆を絶つ。1922年(大正11年)『宣言一つ』を発表し、北海道狩太村(現ニセコ町)の有島農場を開放する。1923年(大正12年)、『婦人公論』記者で人妻であった波多野秋子と知り合い、恋愛感情を抱く(有島は妻と死別後は再婚せず独身を通した)。ところが秋子の夫春房に知られる所となり、脅迫を受けて苦しむことになる。そして6月9日、2人は長野県軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死を遂げた。7月7日に別荘の管理人により発見されるが、梅雨の時期に1ヶ月遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認されたという。複数残されていた遺書の一つには「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」と残されていた。2009年(平成21年)7月に、死の約半年前から有島が秋子と取り交わした書簡各3通が札幌市にある「北海道立文学館」で一般公開された。
辞世の歌は
- 「幾年の命を人は遂げんとや思い入りたる喜びも見で / 修禅する人のごとくに世にそむき静かに恋の門にのぞまん / 蝉ひとつ樹をば離れて地に落ちぬ風なき秋の静かなるかな」
というものであるとされ、唐木順三の評では「いずれも少女趣味以上ではない」と断じられている(『自殺について』1950年(昭和25年))。
師であった内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」(大意)と言明した。
北海道に縁が深いことから、北海道新聞社により「有島青少年文芸賞」という文学賞が実施されている[1]。
魯迅が紹介したことから中華人民共和国での知名度が高く、教科書にも掲載されて広く読まれている。
作品
校歌(作詞)
- 札幌農学校 校歌『永遠の幸』 - 札幌農学校在学中に作詞(ジョージ・フレデリック・ルート(英語: George Frederick Root)作曲・納所弁次郎 選曲・大和田建樹 校閲)
- 同曲は後身の北海道大学校歌としても定められている。
小説
評論
- 惜しみなく愛は奪ふ
- 宣言一つ
- 二つの道
童話
- 一房の葡萄
- 溺れかけた兄妹
戯曲
- ドモ又の死
全集
- ^ 有島青少年文芸賞サイト(2019年7月16日閲覧)。
- ^ 石井好子著『私は私』
- ^ a b 有島武郎歴史が眠る多磨霊園
- ^ 三遊亭圓歌さん追悼秘話 最後まで寄席にこだわり“終活”、「山のあな、あな」は自らの吃音経験笑いに - ZAKZAK 2017年4月25日
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