有吉佐和子 有吉佐和子の概要

有吉佐和子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 00:32 UTC 版)

有吉 佐和子
(ありよし さわこ)
主婦と生活社『主婦と生活』4月号(1960)より
誕生 1931年1月20日
日本和歌山県和歌山市真砂丁
死没 (1984-08-30) 1984年8月30日(53歳没)
日本東京都杉並区
墓地 小平霊園
職業 小説家劇作家演出家
国籍 日本
教育 準学士
最終学歴 東京女子大学短期大学部英語科
活動期間 1954年 - 1984年
ジャンル 小説戯曲脚本
代表作紀ノ川』(1959年)
華岡青洲の妻』(1967年)
出雲の阿国』(1969年)
恍惚の人』(1972年)
複合汚染』(1975年)
和宮様御留』(1978年)
主な受賞歴 小説新潮賞(1963年)
女流文学賞(1967年)
文藝春秋読者賞(1968年)
芸術選奨(1970年)
日本文学大賞(1970年)
毎日芸術賞(1979年)
デビュー作 『落陽の賦(落陽)』
配偶者 神彰1962年 - 1964年
子供 有吉玉青(長女)
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経歴

父は有吉眞次。長州藩有吉熊次郎は曽祖父にあたる。

佐和子の母の有吉秋津は明治37年(1904年)に和歌山の庄屋の家に生まれ、旧姓は木本といい、父の木本主一郎は政治家だった[3]。たいそうな大女で結婚条件は自分より背が高いことだった。こうして横浜信用金庫に勤めていた180cmの有吉眞次に嫁ぎ、お手伝いを連れて上京した。(佐和子の身長は165cm)[2]

横浜正金銀行勤務の父の赴任に伴い、佐和子は小学校時代を旧オランダ領東インドバタヴィアおよびスラバヤで過ごした。 1941年に帰国後、東京市立第四高女(現・都立竹台高校)から疎開先の和歌山高女(現・和歌山県立桐蔭高校)へ。その後、光塩高女を経て、府立第五高女(現・都立富士高校)卒業。東京女子大学英文学科に入学したが休学後1952年同短期大学部英語学科卒業。大蔵省外郭団体の職員を経て舞踊家吾妻徳穂の秘書となる。

大学在学中から演劇評論家を志望し、雑誌『演劇界』嘱託となる。同人誌『白痴群』、第15次『新思潮』に参加。1956年に『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり一躍文壇デビューを果たした[4]。翌年の1957年には『白い扇』が直木賞候補になっている。初期には主として日本の古典芸能を題材とした短編が多いが1959年、自らの家系をモデルとした長編『紀ノ川』で小説家としての地位を確立した。

1962年神彰(興行師。有吉との離婚後、居酒屋チェーン「北の家族」経営者となる)と結婚。長女として有吉玉青をもうけるが神の事業の失敗により1964年離婚した。1970年代に入ると代表作となる『恍惚の人』や『複合汚染』が大きな反響を呼び、いわゆる「社会派」的イメージが定着した。その流れの中で、第10期中央教育審議会委員に任命されたほか、参院選全国区に出馬した市川房枝の応援や、「四畳半襖の下張」裁判の弁護側証人として東京地裁で証言するなどの社会的活動も行った。

また有吉はしばしば国内外へ取材旅行に出かけ1959年から1960年にかけてロックフェラー財団の奨学金を得てニューヨーク州サラ・ローレンス大学に9か月間留学、1970年 - 1971年にはハワイ大学で半年間「江戸後期の戯曲文学」を講義している。特に中国との縁が深く(後述)、1961年には亀井勝一郎らと国交回復前の中華人民共和国を訪問し、以後たびたび招待された。1965年には天主教(中国におけるカトリックを指す)調査のため半年滞在し[5]1978年には『有吉佐和子の中国レポート』執筆のため人民公社に入っている。

この他1968年には友人の文化人類学者畑中幸子が調査中だったニューギニア山中の村を訪れて『女二人のニューギニア』という爆笑エッセイを書いた。しかし、帰国後にマラリアに罹った。

1972年中央教育審議会の委員に就任した[6]

1984年8月30日未明、急性心不全[7][注釈 1]のため東京都杉並区内の自宅で死去した。53歳没。東京都監察医務院行政解剖され、「病死」と断定され、警察も「自殺などの事件性はないと断定」した。祖父の眠る墓に入ったがただ一人キリスト教徒だったので、墓石の戒名のところに「マリア・マグダレナ」と洗礼名を刻むことになった[2]

有吉の死後、妙法寺東京都杉並区堀ノ内)に『有吉佐和子の碑』が建立され、命日の8月30日に『有吉忌』と題する追善法要が執り行われている[8]

主な作品

ストーリーテラーとしての才能と旺盛な好奇心をもち、多分野に亘る長期間の綿密な取材に基づいた作品を次々に発表して、同世代の女性を中心とする多くの読者を獲得した。主な作品をテーマ別に大きく分類すると以下の通りになる。

出発点である古典芸能や花柳界を扱った作品
『断弦』『香華』『連舞』『乱舞』『一の糸』『芝桜』『木瓜の花』
歴史に題材を取った作品
『助左衛門四代記』『華岡青洲の妻』『出雲の阿国』『真砂屋お峰』『和宮様御留』
特に激動の近代を生き抜いた女性の一生をたゆまず流れる川のイメージにオーバーラップさせる一連の「川もの」
『紀ノ川』『有田川』『日高川』『鬼怒川』
現代の社会矛盾に鋭い目を向けた作品
現代化にゆれる離島の生活を採り上げた『私は忘れない』や『海暗』、人種差別問題に深く切り込んだ『非色』などから、認知症老人とその介護を描いた『恍惚の人』、化学合成物質が人体へ与える悪影響に警鐘を鳴らした『複合汚染』を経て、『有吉佐和子の中国レポート』『日本の島々、昔と今。』のような後期ルポルタージュにつながる。
現代人の人間関係の機微をテーマにした作品
夫の死後に正妻、妾と小姑の三人が一つ屋根の下に暮らすことになって起こるドタバタを通して老いを見つめた『三婆』、不倫を楽しむ男性の破滅を描く『不信のとき』、社宅団地に住む「奥さま」たちの生活を喜劇的に描いた『夕陽カ丘三号館』、次々と人手に渡っていく青磁の壺の持ち主の人間模様をオムニバス形式で追う『青い壺』、27人の関係者へのインタビューという形式によって一女性の虚実を浮かび上がらせる『悪女について』、演劇界のどろどろした内情をミステリータッチに描いた『開幕ベルは華やかに』などがある。

有吉は演劇に造詣が深く、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』などいくつかの戯曲作品があり、また自作小説を中心に脚本化や舞台演出も数多く手がけた。ベストセラーが多いため、作品はしばしば映画化・ドラマ化されている。


注釈

  1. ^ 山田風太郎(『人間臨終図巻I』徳間書店、初版1986年、1996年再版、p.304)と関川夏央(「サーモスタットのない人生」角川ソフィア文庫版、p.36)は死因について疑問を呈している。主治医の村嶋英世(現、医療法人ファミリー会村島医院院長)は取材に応じて病死としている。
  2. ^ 橋本は同年『母子変容』講談社文庫版解説で初めて有吉作品を評し、最晩年の有吉はこの書評に感激して橋本と対談したが、公表された対談はこれが最後となった(「人生、見せ場づくり」『潮』1984年11月)[10] [11]村上春樹との生前最後の対談は公表されていない
  3. ^ 内面描写排除という評価自体は早くから(例えば進藤純孝「郷愁と脱皮の間〈有吉佐和子〉 『紀ノ川』をめぐって」『De Luxeわれらの文学15 阿川弘之・有吉佐和子』解説、講談社、1969年。宮内淳子『作家の自伝109 有吉佐和子』解説、2000年)あるが、それが能力の問題だと断定した論者は関川が初めてである。しかし『作家の自伝109 有吉佐和子』所収の初期随筆には生い立ちについて自己の内面的な観察を語る部分が見られる。一方後期の随筆には「理解は誤解だ」という評論家日沼倫太郎のことばがたびたび引用されており、内面的理解を言語化することへの懐疑がかいまみえる。
  4. ^ 玉青を含む3人の関係については丸川賀世子『有吉佐和子とわたし』に詳しい描写がある。
  5. ^ この記録は同年3月14日に出演した黒柳徹子の「43分」に次ぐ、当時歴代2位の出演時間であった。尚、これらの放送から30年後の2014年3月14日に同コーナーに出演したとんねるずが番組歴代最長記録を更新した為、2023年現在有吉の記録は歴代3位となっている。

出典

  1. ^ 有吉 佐和子 | 和歌山県文化情報アーカイブ”. wave.pref.wakayama.lg.jp. 2020年3月23日閲覧。
  2. ^ a b c d 有吉玉青『ソボちゃん』(平凡社2014年)。
  3. ^ 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年、キ43頁。
  4. ^ 上田正昭・津田秀夫・永原慶二・藤井松一・藤原彰『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 66頁。
  5. ^ 中国天主教--1965年の調査より
  6. ^ 「有吉氏らが委員に 新中教審の18氏決る」『朝日新聞』昭和47年(1972年)5月30日夕刊、3版、3面
  7. ^ a b c 樋口毅宏、「「笑っていいとも!」と有吉佐和子、三十年目の真実」『新潮45』2014年1月号、新潮社、2014年1月18日閲覧。
  8. ^ 妙法寺の碑 (PDF) 広報すぎなみ(2004年8月21日号/No.1689) p.7『散歩道』有吉玉青
  9. ^ . NHKラジオアーカイブス 元文芸誌編集長大村彦次郎談. http://www.nhk.or.jp/r2bunka/ 
  10. ^ 橋本治「彼女の生きていた時代」『有吉佐和子 新潮日本文学アルバム71』、新潮社、97-103頁、19950510。ISBN 4-10-620675-7 
  11. ^ 橋本治「理性の時代に」『有吉佐和子の世界』、翰林書房、116-121頁、20041018。ISBN 4-87737-193-1 
  12. ^ 2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」
  13. ^ a b 「誰が彼女を殺したか」
  14. ^ a b c d “「朝、いつも芸能界やめようと思うのよ」やっとの思いでTVに出続けていた明石家さんまが固めた“覚悟”とは - 『明石家さんまヒストリー2 1982~1985 生きてるだけで丸もうけ』より #2(2/6)”. 文春オンライン. (2021年7月29日). https://bunshun.jp/articles/-/47142?page=2 2023年11月12日閲覧。 
  15. ^ “「朝、いつも芸能界やめようと思うのよ」やっとの思いでTVに出続けていた明石家さんまが固めた“覚悟”とは - 『明石家さんまヒストリー2 1982~1985 生きてるだけで丸もうけ』より #2(3/6)”. 文春オンライン. (2021年7月29日). https://bunshun.jp/articles/-/47142?page=3 2023年11月12日閲覧。 
  16. ^ 山川静夫『勘三郎の天気』69p
  17. ^ a b 「有吉佐和子ちょっといい話」『文藝春秋』1984年11月号。
  18. ^ 『笑犬樓よりの眺望』新潮文庫、1996年7月。
  19. ^ a b 樋口毅宏「笑っていいとも!」と有吉佐和子、三十年目の真実(新潮45)
  20. ^ 秦野章『何が権力か。― マスコミはリンチもする』(講談社、1984年7月)ISBN 4062013762
  21. ^ 胡絜青・舒乙『有吉佐和子,你走得太早(有吉佐和子、あなたは逝くのが早すぎた)』『人民日報』1984年10月9日。
  22. ^ a b c 有吉佐和子記念館、出身の和歌山市にオープン 書斎など邸宅再現 毎日新聞、2022年6月5日閲覧。
  23. ^ 文化庁芸術祭賞受賞一覧 昭和31年度(第11回)~昭和40年度(第20回)
  24. ^ "有吉佐和子の生涯" (PDF). 有吉佐和子記念館. 2022年8月30日. 2022年8月30日時点のオリジナルよりアーカイブ (PDF)。2022年8月30日閲覧
  25. ^ 小説新潮賞受賞作・候補作一覧1-14回
  26. ^ マドモアゼル 小学館
  27. ^ 文藝春秋読者賞
  28. ^ 芸術選奨文部大臣賞(文学部門)受賞者一覧
  29. ^ 日本文学大賞受賞作候補作一覧
  30. ^ "赤い靴を履いて〜作家 有吉佐和子の問いかけ〜". NHK. 2023年6月3日. 2023年5月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月27日閲覧


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