御土居下御側組同心
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御土居下御側組一覧
御土居下御側組は、尾張藩の職制に位置付けられた寛政5年(1793年)時点で16家であった[47]。その後、絶家や転居により2家が抜け、4家が新たに加わったため、文政年間(1818年-1830年)には18家となっている[33][48]。また、嘉永年間(1848年-1854年)にも3家の入れ替わりがあった[40]。いずれも徳川家譜代の家である[33][39]。
寛政5年の16家
- 久道家
- 清洲城から名古屋城への移転(清洲越し)とともに居住した御土居下の最古参である[2]。清洲城で高麗門の門番を務めており、名古屋城への移転後も清洲城から移築された高麗門の門番を任され、そのすぐ脇に住居を与えられた[2]。歴代藩主からの信頼も厚く、2代続けて御乳人を務めたこともある[9][49]。天保14年(1843年)に「久藤」姓に改めている[50]。
- 平時の勤務場所は高麗門番所および御深井庭であった[33][51]。
- 馬場家
- 慶安3年(1650年)に脱出用の馬を管理する厩が設けられた際、乗馬の師であった細野新三郎とともに御土居下に移転してきた[33]。元禄5年(1692年)に厩が廃止されて細野家は去ったが、馬場家は引き続き御土居下に居住した[33]。馬場半右衛門は、師の細野新三郎に劣らず乗馬に長け、藩主の馬の調教を一任されていた[9][10][20]。
- 平時の勤務場所は高麗門番所および御深井庭であった[33][51]。
- 大海家
- 寛永年間(1624年-1643年)から御土居下に居住するようになった[1]。
- 4代目の大海常右衛門利直は、御土居下御側組の中で最も著名な人物の一人である[1]。身長5尺9寸(約178センチメートル)[1][52]、体重24貫(約90キログラム)[20][53]の恵まれた体格で、人を乗せた駕籠を一人で担ぐことができるほどの怪力であった[20][53]。また、足の速さでも知られていた[20][53]。剣術は柳生新陰流、柔術は転心流の達人であり、御前試合では負け知らずであった[20][53]。6代藩主継友は常右衛門を高く評価し、非常時に藩主が乗る忍駕籠を大海家に預け、代々の当主に「常右衛門」を名乗らせた[13][20]。
- 平時の勤務場所は御深井庭であった[33][51]。
- 森島家
- 寛延3年(1750年)に御土居下に移住してきた[54]。
- 8代目の森島佐兵衛は、忍術と水術の達人であった[13][55]。10代藩主斉朝に堀の調査を命じられて1か月にわたる潜水調査を行い、堀の底から絶えず冷水が湧いているのを発見している[13][56]。
- 平時の勤務場所は御深井庭であった[33][51]。
- 入江家
- 元禄5年(1692年)の東矢来木戸の設置と同時に、加藤家とともにその番所勤務を命じられて御土居下の住民となった[33]。
- 笛の名人として知られた入江多門が出た[9][57]。
- 平時の勤務場所は御土居下東矢来木戸番所であったが[33][40]、嘉永年間(1848年-1854年)に林家と入れ替わり御土居下を去っている[40]。
- 加藤家
- 元禄5年(1692年)の東矢来木戸の設置と同時に、入江家とともにその番所勤務を命じられて御土居下の住民となった[33]。
- 平時の勤務場所は御土居下東矢来木戸番所であった[33][40]。
- 石黒家
- 寛延3年(1750年)に御土居下に移住してきた[54]。
- 儒学者として知られた石黒伝四郎が出た[57]。
- 平時の勤務場所は清水門詰所であった[33][40]。
- 市岡家
- 平時の勤務場所は清水門詰所であった[40]。
- 文政年間(1818年-1830年)までに御土居下御側組から抜けている[58]。
- 広田家
- 宝暦6年(1756年)に御土居下に移住してきた[59]。
- 忍術の達人として知られた広田増右衛門を出した[59]。「頭と肩が入る隙間があれば関節を外して自由に出入りした」「鉤の付いた綱一本で林の中を枝から枝へ鳥のように飛び回った」「手を伸ばした程度の高さであれば軽々と飛び越えた」などと伝えられている[13][60]。
- 平時の勤務場所は清水門詰所であったが[33][40]、増右衛門を最後に寛政12年(1800年)に絶家となり[55]、後に広田家の屋敷には水野家が入った[40]。
- 岡本家
- 宝暦7年(1757年)に御土居下に移住してきた[54]。2代目までは「木村」姓であったが、3代目から「岡本」姓に改めている[61]。
- 8代目の岡本唯右衛門正利(通称、岡本勇吉)は田付流砲術の極意を授けられた鉄砲の名手であり、「勇吉健在ならば主君の護衛は盤石なり」と言われるほどであった[62]。藩の砲術の指南役も務めて士分同格の扱いを受けた[49]。また、9代目の岡本梅英は画家として知られている[63]。山本梅逸に師事し、元々は趣味の範囲で描いていたが、明治維新後に禄を離れてからは画家として生活した[64]。長男である10代目の岡本柳南も画家として活躍した[65]。
- 平時は城中に勤務した[7][40]。
- 山本家
- 宝暦7年(1757年)に御土居下に移住してきた[54]。
- 文政・天保年間の剣術の達人であった山本助三郎を出した[66]。助三郎は、御前試合で負け知らずであったとされ、尾張藩円明流を中興した人物と言われている[20][13][66]。
- 平時は城中に勤務した[7][40]。
- 伊藤家
- 宝暦7年(1757年)に御土居下に移住してきた[54]。
- 平時は城中に勤務した[7][40]。
- 牧野家
- 10代藩主斉朝の代に陪食係を務め[9][49]、拝領した食器類を所持していた[49]。
- また、分家から書家の牧野曠壑が出た[41]。彼は御土居下の住民ではなかったが、喧騒を嫌い、静寂を求めて御土居下の牧野本家に籠ることが多かったという[67]。
- 平時は城中に勤務した[7][40]。
- 諏訪家
- 代々、儒学と軍学をもって仕えた学者の家である[10][13][20]。先祖は山本勘助に仕えて甲州流軍学を学んだとされ[13][68]、奥向きで漢籍の講義も行っていた[13][49]。
- 特に7代目の諏訪水太夫小吉は大学者として知られ、藩校である明倫堂の教授も務まると言われた[69]。水太夫の没後に明倫堂の教授となった鷲津毅堂は、「諏訪先生の御存命中一度講義が拝聴したかった」と言って嘆いたという[69]。また、水太夫は、御土居下の地の記録や口伝を『御土居下雑記』としてまとめた人物でもある[70]。
- 平時は城中に勤務した[7][40]。
- 中川家
- 画家として知られた中川梅岳を出した[63]。前出の岡本梅英とは兄弟弟子にあたり、10代藩主の斉朝は殿中の襖の絵を彼に描かせた[63]。中川家は文政10年(1827年)に柳原御側組屋敷に移って御土居下を離れたが、梅岳はその後も御土居下をよく訪れたという[63]。
- 平時は城中に勤務した[40]。
- 安藤家
- 平時は城中に勤務した[7][40]。
- 弓術の名人であった安藤太衛門が出た[57]。
寛政5年以降に加わった家
- 松永家
- 文政年間(1818年-1830年)までに加わった[58]。
- 平時の勤務場所は御土居下東矢来木戸番所であった[33][71]。
- 嘉永年間(1848年-1854年)に伊藤家と入れ替わり御土居下を去っている[40]。
- 豊島家
- 文政年間(1818年-1830年)までに加わった[58]。
- 平時の勤務場所は清水門詰所であった[33][71]。
- 市野家
- 文政年間(1818年-1830年)までに加わった[58]。
- 御土居下御側組の中で最も著名な人物の一人である市野天籟を出した[9][72]。御手筒組からの養子であったが、学問を好み、儒学者として藩主近臣への授読を務めた[72]。また、詩人としても知られ、「御土居下の詩人」と称された[72]。
- 平時は城中に勤務した[7][71]。
- 稲垣家
- 文政年間(1818年-1830年)までに加わった[58]。
- 平時の勤務場所は清水門詰所であった[33][39]。
- 水野家
- 嘉永年間(1848年-1854年)に、広田家に代わって御土居下の住民となった[40]。
- 林家
- 嘉永年間(1848年-1854年)に、入江家に代わって御土居下の住民となった[40]。
- 伊藤家
- 嘉永年間(1848年-1854年)に、松永家に代わって御土居下の住民となった[40]。
注釈
- ^ 御土居下御側組同心を忍者とするものもある(高木(1994)、29頁)が、御土居下御側組の子孫で自身も御土居下に住んでいた岡本柳英は、御土居下御側組同心で忍術で知られた広田増右衛門を評して「尾張藩にて忍術の心得あるものは、極めて稀であった」(岡本(1980)、133頁)と述べている。
- ^ これとは別に、本丸から二の丸・三の丸の下を通り東大手門の北の外堀に通じる地下の抜け道があったとする説もあるが、その存在は確認されていない(高木(1994)、29頁)。
- ^ 岡本柳英は「城の東北隅階段から」と述べている(岡本(1980)、5頁など)が、初期を除き藩主は二の丸で生活したことや埋門があるのは二の丸側であることから、ここでは生駒(1995)に拠る。
- ^ これ以前には「御庭足軽組」と称していたとする文献もあるが、岡本柳英はこれに疑問を呈し、それ以前には特別な名称はなく、この時に初めて名称を与えられたと主張している(岡本(1980)、72、84-86頁)
- ^ 逆に、御土居下の閑静な環境に惹かれて新たに移住してくる者もいた(岡本(1980)、221頁)。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 中村(1990)、220頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 生駒(1995)、140頁。
- ^ a b c 岡本(1980)、86頁。
- ^ 岡本(1980)、63頁。
- ^ a b c d 岡本(1980)、221頁。
- ^ 岡本(1980)、27頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 生駒(1995)、142頁。
- ^ 岡本(1980)、51-55頁。
- ^ a b c d e f g h 生駒(1995)、144頁。
- ^ a b c d e 岡本(1980)、93頁。
- ^ a b c 窪田(1994)、22頁。
- ^ 高木(1994)、29頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 生駒(1995)、143頁。
- ^ 岡本(1980)、114頁。
- ^ 岡本(1980)、115頁。
- ^ 岡本(1980)、89頁。
- ^ 岡本(1980)、117-118頁。
- ^ 岡本(1980)、112頁。
- ^ 岡本(1980)、118頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 中村(1990)、221頁。
- ^ 岡本(1980)、62頁。
- ^ a b c 岡本(1980)、16頁。
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- ^ 岡本(1980)、23-24頁。
- ^ 岡本(1980)、32-35頁。
- ^ a b 岡本(1980)、37頁。
- ^ 岡本(1980)、39頁。
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- ^ 岡本(1980)、57頁。
- ^ a b 岡本(1980)、57-58頁。
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 生駒(1995)、141頁。
- ^ a b 岡本(1980)、68-69頁。
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- ^ 岡本(1980)、70-71頁。
- ^ 生駒(1995)、140-141頁。
- ^ a b c 岡本(1980)、84頁。
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- ^ a b c 岡本(1980)、142頁。
- ^ 岡本(1980)、221-222頁。
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- ^ a b c d e 岡本(1980)、90頁。
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- ^ a b c d e 岡本(1980)、72頁。
- ^ a b 岡本(1980)、136頁。
- ^ 岡本(1980)、137頁。
- ^ a b c 岡本(1980)、154頁。
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- ^ a b 岡本(1980)、133頁。
- ^ 岡本(1980)、133-134頁。
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- ^ 岡本(1980)、146-147頁。
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- ^ a b 岡本(1980)、130頁。
- ^ 岡本(1980)、129頁。
- ^ a b c 岡本(1980)、83頁。
- ^ a b c 岡本(1980)、132頁。
- 1 御土居下御側組同心とは
- 2 御土居下御側組同心の概要
- 3 沿革
- 4 御土居下御側組一覧
- 5 脚注
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