大西洋 生物

大西洋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 04:41 UTC 版)

生物

大西洋は生物の種数が比較的少なく、様々な分類群において太平洋やインド洋に比べて数分の1程度の種数しか持たない。これは、大西洋が大陸移動によって作られた新しい海であること、他の海洋とは南北の極地でしか繋がっていないために生物の移動が困難であることなどによると考えられる。ちなみに、大西洋の魚類の総種数より、アマゾン川の淡水魚の種数の方が多いとも言われる[要出典]

大西洋の各地には漁場が点在するが、とくに大西洋北部はメキシコ湾流が寒冷な地方にまで流れ込むために海水の攪拌がおき、世界屈指の好漁場となっている。メキシコ湾流とラブラドル海流が出会う北アメリカ・ニューファンドランド沖のグランドバンクや、北海やアイスランド沖などの大西洋北東部が特に好漁場となっている。北大西洋の生産性は全般的に高いが、サルガッソ海だけは貧栄養で漁獲量も非常に少ない。しかしこのサルガッソ海はウナギの産卵場所となっており、ヨーロッパウナギやアメリカウナギはここで産卵し生育したのち各大陸に向かう[11]

南大西洋はベンゲラ沖に湧昇域があり、アフリカ沿岸は豊かな漁場で南アメリカ沿岸も生産性は低くないが、大洋の中央部はメキシコ湾流のような豊かに栄養分を含む海流が存在しないため、生産性は非常に低い[12]

名称

英語のアトランティック・ オーシャン(Atlantic Ocean)はプラトンの『ティマイオス』や『クリティアス』に登場する伝説の大陸アトランティスに因む[13]

明代末の中国では1602年にイエズス会士マテオ・リッチが世界地図『坤輿万国全図』を作成した[13]。この地図は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものでポルトガルの西海岸に「大西洋」という記述がある[13]

マテオ・リッチの世界地図『坤輿万国全図』は日本にも伝来し、1698年頃に書かれた渋川春海の『世界図』ではポルトガル沖に「大西洋」と記されている[13]。幕末、アトランティック・ オーシャンという呼び名が伝来し、永井則の『銅版万国方図』(1846年)や箕作阮甫の『新模欧邏巴図』(1851年)では「亜太臘海」、山路諧孝『重訂万国全図』(1855年)では「壓瀾的海」という漢字を当てた表記が使われたが名称として定着しなかった[13]

歴史

古代・中世

大西洋沿岸のほぼすべての地域には有史以前から人類が居住していた。紀元前6世紀ごろからは、カルタゴが大西洋のヨーロッパ沿岸を北上してイギリスコーンウォール地方との交易を行っていた。その後もヨーロッパ近海では沿岸交易が行われていた。1277年には、地中海ジェノヴァ共和国ガレー船フランドルブリュージュ外港のズウィン湾に到着し[14]、これによって大西洋を経由し北海・バルト海と地中海を直接結ぶ商業航路が開設され、ハンザ同盟が力を持っていた北海・バルト海航路と、ヴェネツィアジェノヴァが中心となる地中海航路が直接結びつくこととなった。この大西洋航路の活発化により、それまでの内陸のシャンパーニュ大市に代わってフランドルのブリュージュが[15]、その後はアントウェルペンがヨーロッパ南北航路の結節点となり、ヨーロッパ商業の一中心地となった。

最も古い大西洋横断の記録は、西暦1000年レイフ・エリクソンによるものである。これに先立つ9世紀ごろから、ヴァイキングの一派であるノース人が本拠地のノルウェーから北西に勢力を伸ばし始め、874年にはアイスランドに殖民し、985年には赤毛のエイリークグリーンランドを発見した。そして、赤毛のエイリークの息子であるレイフ・エリクソンがヴィンランド(現在のニューファンドランドに比定される)に到達した。しかしこの到達は一時的なものに終わり、グリーンランド植民地も15世紀ごろには寒冷化により全滅してしまう。

大航海時代

一方そのころ、南のイベリア半島においてはポルトガルエンリケ航海王子1416年ごろからアフリカ大陸沿いに探検船を南下させるようになった。この探検船はその頃開発されたキャラック船キャラベル船を利用し航海の安全性を上げており、これによって遠方の探検が可能になった。1419年にはマデイラ諸島が、1427年にはアゾレス諸島が発見され、1434年にはそれまでヨーロッパでは世界の果てと考えられていたボハドール岬スペイン語版スペイン語: Cabo Bojador アラビア語: رأس بوجدورra's Būyadūr ラス・ブジュドゥール)を突破[16]。以後も探検船は南下し続け、1443年にはアルギンを占領し[17]1488年には、バルトロメウ・ディアス喜望峰を発見し、アフリカ大陸沿いの南下は終止符を打った。

このアフリカ大陸沿岸航路の発見により、旧来のサハラ交易は大きな打撃を受けた。アフリカの大西洋沿岸にはヨーロッパ各国の商館が軒を連ねるようになり、それまで内陸のサハラ砂漠を通過していた交易ルートの一部が大西洋経由に振り向けられるようになった。ただしサハラ交易は内陸部においては依然盛んであり、交易ルートが完全に大西洋経由へと振り替えられるのは19世紀後半までずれ込んだ。

1492年にはスペインの後援を受けたクリストファー・コロンブスが大西洋中部を横断し、バハマ諸島の1つであるサン・サルバドル島に到着した。以後、スペインの植民者が次々とアメリカ大陸に侵攻し、16世紀初頭にはアメリカ大陸の中央部はほとんどがスペイン領となった。一方、コロンブスの報が伝わってすぐ、1496年ジョン・カボットが北大西洋をブリストルから西進し、ニューファンドランド島へ到達。メキシコ湾流とラブラドル海流が潮目を成しており、世界有数の好漁場となっているニューファンドランド沖で、彼らは大量のタラの魚群を発見した。タラは日持ちもよく価値の高い魚だったため、この報が伝わるやすぐにフランスやポルトガルの漁民たちは大挙して大西洋を渡り、タラをとるようになった[18]1500年には、インドへの航海中だったペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジル北東部に到達し、1494年に締結されたトルデシリャス条約の分割線の東側だったためポルトガルによる開発が行われるようになった[19]1513年にはバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアによってアメリカ大陸が最も狭まる地点であるパナマ地峡が発見され、1515年にはパナマ地峡を越える最短ルートである「王の道」が発見された[20]ことでアメリカ大陸を越えるルートが利用可能になった。

1520年にはフェルディナンド・マゼランマゼラン海峡を発見し、大西洋と太平洋をつなぐ航路が利用可能になった。もっともマゼラン海峡は波の荒い難所であるうえ経済の中心地域から遠く隔たっており、船を回航する際には利用されたものの商業航路としてはあまり利用されなかった。太平洋からのルートはむしろ中央アメリカのパナマ地峡やメキシコを通過することが多く、1566年からはベラクルスポルトベロといった太平洋からの貿易ルートの終着点をめぐり、スペインのセビリアを目指すインディアス艦隊が就航するようになった。この航路によって新大陸で取れたがスペインに運ばれ、スペインの隆盛の基盤となった。一方でこうしたスペインの艦船に積まれた財宝を狙う私掠船海賊もこのころから大西洋に出没するようになり、そのうちの一人であるイギリスのフランシス・ドレークは、1578年ドレーク海峡を発見している。

これらのヨーロッパ人のアメリカ大陸移住によって、大西洋両岸においていわゆるコロンブス交換が起こり、両大陸の文化に重大な影響をもたらした。旧大陸からはコムギなどがもたらされる一方、新大陸からはトウモロコシジャガイモトマトたばこなどがもたらされ、両地域ともに盛んに利用・生産されるようになっていった。17世紀には南アメリカからアフリカ大陸にキャッサバがもたらされ、キャッサバ革命と呼ばれる農業技術の革新が起こった。

また、上記の諸航路の発見・開発によって、アジアや新大陸の富が大西洋経由でヨーロッパ大陸へと流れ込むようになり、ヨーロッパ大陸の経済重心は大きく変化した。アジア交易の起点であるリスボンや、新大陸交易の拠点であるセビリアはいずれも大西洋に面した港町であり、それまでのヨーロッパ域内貿易に依存したバルト海・地中海地域から、域外交易を握る大西洋地域、およびそれと直結した北海地域がヨーロッパの新たな経済の中心地域となった。

近世

大西洋三角貿易

17世紀に入るとスペインの勢力は衰え、オランダやイギリスなどの新興国が大西洋交易を握るようになった。一時は各国が競って大西洋交易を担う西インド会社を設立したもののうまくいかず、やがて大西洋交易は一般商人によるものが主流となった。また、スペインの勢力縮小に伴って小アンティル諸島には空白地域が点在するようになり、そこにヨーロッパ諸国が競って植民地を建設していった。北アメリカ大陸においては、1607年にイギリスがジェームズタウンを建設し、さらに1620年メイフラワー号に乗ったピルグリム・ファーザーズプリマスを建設して、以後農業移民が続々と大西洋を渡って北アメリカ大陸東岸へと押し寄せ、18世紀末にはアメリカ東部13植民地が成立していた。これらの植民地はいずれも大西洋岸から内陸へと進出して建設されたもので、主要都市はいずれも大西洋岸にあり、本国並びに西インド諸島との大西洋交易を基盤として発展していった。

18世紀には、ヨーロッパの工業製品をアフリカに運んで奴隷と交換し、その奴隷を西インド諸島アメリカ南部に運んで砂糖綿花と交換し、それをヨーロッパへと運ぶ三角貿易が隆盛を極め、この貿易がイギリスが富を蓄える一因となった[21]。一方で大量の奴隷を流出させたアフリカの経済は衰弱し、のちの植民地化の遠因となった。奴隷として運ばれた黒人たちは小アンティル諸島やアメリカ南部、ブラジル北東部など各地に定着し、やがて独自の文化を形成していった。この交易はイギリス経済の根幹の一つとなり、イギリス商業革命の原動力になるとともに、西インド諸島やアメリカ植民地ではイギリス文化の流入が進み、商人以外にも官僚宣教師などの移動も活発化して、大西洋はイギリス帝国の内海になった[22]。上記の三角貿易のほかに、英国、北米、西インドを結ぶ奴隷を商品としない三角貿易も存在した。1763年のパリ条約によって、イギリスは北アメリカ大陸からフランスをほぼ撤退させ、北大西洋の内海化をより進めた。しかし、やがて七年戦争の戦費負担を求められたアメリカ植民地が反発し、アメリカ独立戦争が勃発。1776年アメリカ合衆国は独立することとなった。

近現代

19世紀に入り、アメリカ合衆国が大国となるにつれて、アメリカとヨーロッパを結ぶ北大西洋航路は世界でもっとも重要な航路となった。また、独立を達成したラテンアメリカ諸国も経済的にはイギリスにほとんどの国が従属することとなり、対南米航路においてもイギリスは優位を占めることとなった。また、19世紀にはヨーロッパ大陸から移民が大西洋を渡って陸続と南北アメリカ大陸へと押し寄せた。この時期には、輸送手段の革新と高速化も進んだ。19世紀に入って開発されたクリッパー船帆船の頂点をなすもので、アメリカとイギリスが主な生産地であり、この両国によって使用され、これによって大西洋両岸の時間的距離は大きく縮まった。1818年には最初の帆船による定期航路がリヴァプールニューヨークを結ぶようになり、1838年には蒸気船による定期航路がリヴァプールとブリストルからニューヨークにそれぞれ開設された[23]1833年には最速で大西洋を横断した船舶にブルーリボン賞が贈られるようになって、スピード競争が始まった。1858年にはアイルランドのヴァレンティア島とカナダのニューファンドランド島との間に初の大西洋横断電信ケーブルが敷設された。このケーブルは失敗したものの、1866年に再敷設された際には成功し、以後大西洋の両岸を結ぶ海底ケーブルが次々と敷設され、両岸の情報伝達は急激に改善された。1914年には大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河が開通し、それまでマゼラン海峡を回るしかなかった船舶が中米地峡を通過することができるようになったことで両地域間のアクセスは飛躍的に向上した。

1919年以降、技術の進歩によって大西洋を飛行機で横断することが可能となり、大西洋横断飛行記録に注目が集まるようになった。1919年5月には飛行艇が着水しながらニューヨーク州ロングアイランドからポルトガルのリスボンまでの横断に成功し、同年6月にはニューファンドランド島からアイルランドまでの無着陸横断が成功。1927年5月20日にはチャールズ・リンドバーグがニューヨーク~パリ間の単独無着陸飛行に成功した。

1949年には北大西洋条約機構が設立され、北大西洋の両岸(北アメリカと西ヨーロッパ)が軍事同盟を締結したことによって北大西洋は巨大な軍事同盟の傘の下におかれることとなった。

1970年、イギリス人男性が単独で手漕ぎボート(全長約6m)による大西洋横断を果たした。イギリスからカナリア諸島を経由し、アンティグア島に142日で至ったもの[24]


  1. ^ Limits of Oceans and Seas. International Hydrographic Organization Special Publication No. 23, 1953.
  2. ^ 「地球を旅する地理の本 7 中南アメリカ」p18 大月書店 1993年11月29日第1刷発行
  3. ^ Milwaukee Deep Archived 2013年8月7日, at the Wayback Machine.. sea-seek.com
  4. ^ 「世界地理12 両極・海洋」p196 福井英一郎編 朝倉書店 昭和58年9月10日
  5. ^ ピネ 2010, p. 115.
  6. ^ ピネ 2010, p. 122.
  7. ^ a b 和達 清夫 監修 『海洋の事典』 p.431 東京堂出版 1960年4月20日発行
  8. ^ ピネ 2010, p. 201.
  9. ^ ピネ 2010, p. 223.
  10. ^ 和達 清夫 監修 『海洋の事典』 p.594 東京堂出版 1960年4月20日発行
  11. ^ ピネ 2010, p. 368.
  12. ^ ピネ 2010, p. 364.
  13. ^ a b c d e 佐藤正幸. “明治初期の英語導入に伴う日本語概念表記の変容に関する研究”. 山梨県立大学. 2020年1月18日閲覧。
  14. ^ 河原温著 『ブリュージュ フランドルの輝ける宝石』p25 中公新書、2006年
  15. ^ 「商業史」p27-28 石坂昭雄、壽永欣三郎、諸田實、山下幸夫著 有斐閣 1980年11月20日初版第1刷
  16. ^ 「大帆船時代」p7 杉浦昭典 昭和54年6月26日印刷 中央公論社
  17. ^ 「サハラが結ぶ南北交流」(世界史リブレット60)p74 私市正年 山川出版社 2004年6月25日1版1刷
  18. ^ 「魚で始まる世界史 ニシンとタラとヨーロッパ」p162-163 越智敏之 平凡社新書 2014年6月13日初版第1刷
  19. ^ 「概説ブラジル史」p26 山田睦男 有斐閣 昭和61年2月15日 初版第1刷
  20. ^ 国本伊代・小林志郎・小沢卓也『パナマを知るための55章』p54 エリア・スタディーズ、明石書店 2004年
  21. ^ 「略奪の海カリブ」p162-164 増田義郎 岩波書店 1989年6月20日第1刷
  22. ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p58 秋田茂(中公新書, 2012年)
  23. ^ 『世界一周の誕生――グローバリズムの起源』p42-45 園田英弘(文藝春秋[文春新書], 2003年)
  24. ^ ボートぎっちら 大西洋を乗り切る 英人単独、142日で『朝日新聞』1970年(昭和45年)3月12日 12版 15面
  25. ^ 大西洋赤道域の新たな気候変動メカニズム海洋研究開発機構 JAMSTEC





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