ルートヴィヒスブルク 歴史

ルートヴィヒスブルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 00:08 UTC 版)

歴史

前史

1965年以降に初めて大規模な住宅建設が行われたシュレスレスフェルト居住区で、新石器時代の定住跡が数多く発見された。この地域は、紀元前5700年前から紀元前3300年頃まで、およそ2400年の間、ほぼ継続的に線帯文土器文化の集落が存在した[8]

ルートヴィヒスブルクの市域およびその周辺からの多くの出土品がケルト人の定住を示している。1世紀の終わり頃にローマ帝国がこの地を征服し、260年アレマン人がネッカーラントに侵入するまで占領を続けた。アレマン人の集落跡も現在の市域の発掘で見つかっている。ローマ時代ヴィラ・ルスティカドイツ語版英語版(荘園付き別荘)もホーエネック地区で発掘された[9]

所属行政体

国家 行政体 所属機関
神聖ローマ帝国 ヴュルテンベルク公領 1709年 - 1806年
ヴュルテンベルク王国 第2郡ルートヴィヒスブルク 1806年 - 1810年
ラントフォークタイ・アン・デア・エンツ 1810年 - 1818年
ネッカー郡 1818年 - 1871年
ドイツ帝国 ヴュルテンベルク王国 1871年 - 1918年
ヴァイマル共和政 ヴュルテンベルク自由人民州 1918年 - 1933年
ナチス・ドイツ
ナチス・ドイツ
ヴュルテンベルク 1933年 - 1945年
連合軍軍政期 ヴュルテンベルク=バーデン州ドイツ語版英語版 1945年 - 1949年
ドイツ連邦共和国 1949年 - 1952年
バーデン=ヴュルテンベルク州 1952年 - 1990年
ドイツ連邦共和国 1990年 -

1718年マルクグレーニンゲンフォークタイ(代官所)がルートヴィヒスブルクに移転し、1758年からオーバーアムタイと改名された。オーバーアムト・ルートヴィヒスブルクから1938年にルートヴィヒスブルク郡が組織され、1973年の郡の再編に伴って拡大ルートヴィヒスブルク郡が成立した[10]

エーバーハルト・ルートヴィヒ治世下(1704年 - 1733年)のバロック都市建設

この街の創建者ヴュルテンベルク公エーバーハルト・ルートヴィヒ
1705年のルートヴィヒスブルク宮殿
ファヴォリーテ城
グレーヴェニッツ宮殿

ルートヴィヒスブルクは、何世紀にもわたって成長したヨーロッパの多くの都市とは異なり、18世紀初めに製図板の上で計画された都市である[11]ヴェルサイユ宮殿をモデルに、多くの絶対君主が古い都市の門前に新しい宮殿を建設した(たとえば、マンハイムカールスルーエラシュタットポツダムルートヴィヒスルストドイツ語版英語版ヴォルフェンビュッテルなど)。貴族の特権である狩りに専念するために、ヴュルテンベルク公エーバーハルト・ルートヴィヒ1704年に、古い首都シュトゥットガルトの郊外に城館を建設した。このルートヴィヒスブルク城は、当初は単に狩りの拠点としてのみ用いられていたが、シュトゥットガルトの宮殿であるアルテス・シュロスドイツ語版英語版(直訳: 古い城館)にはない様々な利点があった。シュトゥットガルトの宮殿は狭い中世風の建物であるため、あまり目立たない存在であった。これに対して城館庭園や広い道路を備えたルートヴィヒスブルクは、18世紀のシュトゥットガルトにまさに対抗しうる設計であった。ルートヴィヒスブルクの狩りの城は堂々たるルートヴィヒスブルク宮殿ドイツ語版英語版に改築された。この城は、破壊を免れたドイツ最大の宮殿建築となっている。

エーバーハルト・ルートヴィヒの野心は、宮殿の建設だけで終わらなかった。彼は選帝侯への昇格を目指したが、かなわなかった。公爵の権利をはるかに超えた統治に関する野心を彼は、1709年からの全市にわたる都市建設において紛れのない形で表明したのであった[12]。計画都市の設計では、宮殿を主軸に置いた。宮殿の西に接して都市型居住地を設けた。マルクト広場を中心に直交する道路網が街を規則的なブロックに分割した。3階建ての家屋が、イタリア出身の建築家ドナート・ジュゼッペ・フリゾーニドイツ語版英語版の設計に基づき建設された。家屋は間を開けずに道路沿いに並べられるべきであるとした公爵の規則により、密集した建築線が形成された。都市景観は並木道によって印象が和らげられた。

1718年9月3日にこの街は都市権を得た。街に市民を呼び込むために、公爵は広範な特権を授けた。彼は15年間の無税、無償の借地と建築資材の提供を約束した。後にはさらに関税無料化と宗教の自由も追加された。それでもルートヴィヒスブルクの成長は緩慢であった。その原因は、1つには土地取得の機会がないことであり、もう一つは公爵によって操作された市民の選抜にあった。住民は少なくとも1,000ターラー以上の資産基盤を持つことが必要で、農民は不可であった。公爵はこうした方法で裕福な市民からなる理想都市を速やかに建設しようとしたのである。最初の21人の応募者のうち、ルートヴィヒスブルクに定住することが許されたのはわずかに2人だけであった[12]。繁栄した都市というコンセプトは成功しなかった。城の建設現場には、主に資金力のない職人、下働き、メイド、日雇い労働者、宮廷の職員が雇われていたため、都市住民の半分は当分の間低所得者が占めていた。住民は経済的には公爵の宮廷に依存し続けた。

エーバーハルト・ルートヴィヒは、1718年にヴュルテンベルクの首都をシュトゥットガルトからルートヴィヒスブルクに移した。公爵は、ルートヴィヒスブルクへついて行くことを拒否したシュトゥットガルトの役人を解雇すると脅しつけた。強制移住により君主に忠実な官僚制度をルートヴィヒスブルクに確立しようとしたのであった。役人の多くは、法学者ヨハン・ヤーコプ・モーザードイツ語版英語版が嘆いているように「湿った、半分だけできあがった家」に住んだ。他の同時代人も公爵の努力を嘲笑している[13]:

この君主はシュトゥットガルトを衰退させたが、ルートヴィヒスブルクがまともな街になることなどありえない。
プロイセンの文筆家 カール・ルートヴィヒ・フォン・ペルニッツドイツ語版英語版

エーバーハルト・ルートヴィヒが亡くなった時、ルートヴィヒスブルクの人口はシュトゥットガルトと同等の 6,000人であった[14]。市民の間での悪評の原因は、ルートヴィヒスブルクの宮廷の風紀やモラルの状態にあった。ヴュルテンベルク公領の住民には福音主義ルター派の信仰が根付いていた。そのため、公爵が正当な公妃ヨハンナ・エリーザベト・フォン・バーデン=ドゥルラハドイツ語版英語版をシュトゥットガルトに残したまま、ルートヴィヒスブルクで愛妾のヴィルヘルミーネ・フォン・グレーヴェニッツドイツ語版英語版と婚外で関係を持ったことに憤慨したのであった[15]。人々はルートヴィヒスブルクを「ルンペンブルク」(直訳: だらしない城)と陰口した。エーバーハルト・ルートヴィヒは自らの公妃の隠居所として、街と宮殿を拡張して狩りと別荘の城館ファヴォリーテ城ドイツ語版英語版(工期: 1713年 - 1728年)を建設した。エーバーハルト・ルートヴィヒ公は1728年にグレーヴェニッツ宮殿を建設し(おそらく都市計画者ドナート・ジュゼッペ・フリゾーニが建設)、愛妾に贈った[16]。元々3階建てであったこの建物は、宮殿近くのマールシュタル通り5番地にあり、城館演劇祭のオフィスが入居している。

この街は創建当時から軍事とも緊密なつながりがある。エーバーハルト・ルートヴィヒ時代までルートヴィヒスブルクには兵舎がなかったため、40人の近衛兵は民間の家に住んでいた[17][18]近衛兵2人ずつがシフト交替で宮殿内のエーバーハルト・ルートヴィヒを警護した。ルートヴィヒスブルクが本当に兵舎の街となるのは、1736年カール・アレクサンダー公の治世からであった。

エーバーハルト・ルートヴィヒ以降の宮廷都市の時代(1733年 - 1816年)

1718年から1816年まで、公爵はシュトゥットガルトとルートヴィヒスブルクとの間で遷都を繰り返した:

期間 首都 ヴュルテンベルク公(1806年以降は王)
1718年 - 1733年 ルートヴィヒスブルク[19] エーバーハルト・ルートヴィヒ(在位: 1693年 - 1733年)
1733年 - 1764年 シュトゥットガルト カール・アレクサンダー(在位: 1733年 - 1737年)
カール・オイゲン(在位: 1737年 - 1793年)
1764年 - 1775年 ルートヴィヒスブルク カール・オイゲン
1775年 - 1797年 シュトゥットガルト カール・オイゲン
ルートヴィヒ・オイゲン(在位: 1793年 - 1795年)
フリードリヒ2世オイゲン(在位: 1795年 - 1797年)[20]
1797年 - 1816年 シュトゥットガルト
(ルートヴィヒスブルクを夏の宮殿とする)
フリードリヒ1世(在位: 1797年 - 1816年)

カール・アレクサンダー治世下のルートヴィヒスブルク

1733年にカール・アレクサンダーがヴュルテンベルク公の座に就くと、宮廷はシュトゥットガルトに戻された。ルートヴィヒスブルクの経済は宮廷に依存していたため、住民の半数以上が公爵に従った。ルートヴィヒスブルクの衰退を防ぐために、カール・アレクサンダー公はこの街に1736年に初めてヴュルテンベルクの刑務所・矯正施設を建設した。この施設には、ホームレス、孤児、犯罪者、後には精神病者も収容され、布地作りに従事した[21]。このためにカール・アレクサンダー公は、本格的な機織を行う布地職人をルートヴィヒスブルクに呼び寄せ、単純な作業を施設の収容者に行わせた。

ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマーの館

シュトゥットガルトにおけるヴュルテンベルク公領のラントシュテンデドイツ語版英語版や役人による反ユダヤ主義のため、ユダヤ人金融業者ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマーはルートヴィヒスブルクに住んだ[22]。カール・アレクサンダーはルートヴィヒスブルク宮殿近くの邸宅に住むことを許可したが、この邸宅は国有財産として保持されており、オッペンハイマーの所有物ではなかった。この邸宅は7部屋あり、オッペンハイマーは高価なフランクフルトの壁布でこれを装飾した。この邸宅は現在のメンペルガルト通り18番地にある。カール・アレクサンダーの豪奢な宮廷生活の費用を捻出するためにオッペンハイマーはルートヴィヒスブルクに製陶業の設立を勧告した。財務局はそのために制作所の建物を使えるように計らい、企業家に2000グルデンの準備資金を用意した[23]1738年2月4日にオッペンハイマーがシュトゥットガルトで処刑されたため、ルートヴィヒスブルガー製陶工場が設立されたのはカール・オイゲンの時代になってからであった。

カール・オイゲン治世下のルートヴィヒスブルク

カール・オイゲン公(1750年代)

父カール・アレクサンダーが早逝した後、9歳のカール・オイゲンがヴュルテンベルク公に就いた。治世初期の1744年にカール・オイゲン公は、宮廷のルートヴィヒスブルク再移転を話題にしてラントシュテンデを脅かした[24]。公爵を自分たちの近く、すなわちシュトゥットガルトに留めておくために、ラントシュテンデ、福音主義聖職者指導者、市民階級は、シュトゥットガルトの宮殿新築のための資金を認可した。現在のノイエス・シュロスドイツ語版英語版(新宮殿)である。しかし、2つの理由により、シュトゥットガルトは首都機能をルートヴィヒスブルクに奪われた。1つは、カール・オイゲンとラントシュテンデとの間の衝突激化、もう1つは1762年に完成間近だった新しい城館がほぼ完全に焼失したことであった。カール・オイゲン公は1764年に宮廷をシュトゥットガルトからルートヴィヒスブルクに移した。公爵は他の領邦君主との文化的競争に直面していた。18世紀にはすでに書簡、旅行、肖像画や銅版画のやりとりが、領主間の緊密なコミュニケーションネットワークを形成していた。その結果文化的な競争が常に行われていたのであった。カール・オイゲンも、その威信にかけて、他の君主の文化プログラムに後れを取ることは許されなかった。

こうした観点から、18世紀後期の近代的な宮廷都市としてルートヴィヒスブルクには欠けているものがあった: オペラ劇場である。1764年11月11日にカール・オイゲンは、自分の37歳の誕生日までにオペラ劇場を完成させるよう命じた。当時ヨーロッパ最大のオペラハウスを建設するためにカール・オイゲンが建設責任者に与えたのはわずか3.5か月であった。期限に間に合わせるために周辺の村の農民たちに、木を切り倒してルートヴィヒスブルクへ木材を運び込む労役が課された。300人の大工、150人の左官、75人の下働き、40人の石工、20人の家具職人が建設工事に雇われた。さらに軍役から転属した近衛兵がこれに加わった。その結果、1765年2月11日の公爵37歳の誕生日には、実際にオペラを上演することができた[25]。ヨーロッパ全土から高名な芸術家をルートヴィヒスブルクの宮廷に招くため、カール・オイゲンは高額の報酬を支払った。公爵は、パリ出身のバレエ振付師ジャン=ジョルジュ・ノヴェール1人のために、兵士12,000人分よりも多くの金を払った。カール・オイゲンは、ローマ教皇の宮廷からイタリア人作曲家ニコロ・ヨンメッリをルートヴィヒスブルクに引き抜いた。

しかし、モーツァルト親子とルートヴィヒスブルクで対面することには失敗した。マンハイムやパリへの旅の途中、1763年に子供のヴォルフガング・アマデウスマリア・アンナはルートヴィヒスブルクに滞在した[26]。父レオポルトは子供たちを公爵に披露するつもりでいた。しかし公爵はグラーフェネック城へ狩りに出かけており、家族はこれを果たせなかった。家族は宮殿の真向かいのホテル・ヴァルトホルンに2日間滞在した[27]

モンレポス城

カール・オイゲン公治下でのバロック建築は、ゼーシュロス(湖の城)モンレポス城ドイツ語版英語版(工期: 1764年 - 1768年)で完結した。カール・オイゲンとそのゲストは、ヴェネツィア風のゴンドラでこの城へ到着する趣向であった。しかし工事開始後4年でカール・オイゲンはこの別荘工事を中止させた。彼の興味はすでにゾリトゥーデ城ドイツ語版英語版に移ったためであった。

カール・オイゲンは完全に啓蒙主義の立場から、宮廷の他にもルートヴィヒスブルクに施設建設を奨励した。10万巻の書物を収める彼の宮廷図書館は、ヴュルテンベルク公領で最初に一般公開された図書館であった。カール・オイゲンは1758年にヨーゼフ・ヤーコプ・リングラーの協力を得てルートヴィヒスブルクに製陶工場を設立した。しかしこの工場は経済的利益を生まなかった。それは、磁器作りの原料であるカオリナイトパッサウから輸入しなければならなかったからであった。多くの領邦帝国都市を通って原料を運ぶことで、通行税の支払いが必要となり、ルートヴィヒスブルク磁器の価格はとても高いものとなり、ヴュルテンベルク公の経済援助なしでは立ちゆかなくなった。

廷臣の目から一時的に逃れるため、カール・オイゲンは宮殿の中に私的な隠居所を要求した。フランス人宮廷建築家フィリップ・ド・ラ・ゲピエールは、ノイエス・コルプス・デ・ロギスの3階に当時流行のロココ様式で、いわゆる「ノイエス・ツィンマー」(直訳: 新しい部屋)を造った[28]。これは、ギャラリー、2つの前室、コンサートホール、遊戯室、2つの小部屋、寝室からなるエンフィレードドイツ語版英語版(一列に並んだ続き部屋)であった。公爵はパリ滞在中に多くの高価な家具を購入した。カール・オイゲンはここで音楽、小さなサークルの集まり、バックギャモンチェスなどのテーブルゲームを楽しんだ。しかしカール・オイゲンはゾリトゥーデ完成直後に新しい城館に家具を運び出した。

カール・オイゲンは常備軍の一部をルートヴィヒスブルクに駐屯させた。1773年には、この街には11,000人が住んでいたが、その半分以上が駐屯軍に属していた。

1775年、カール・オイゲンは宮廷を最終的にシュトゥットガルトに戻した。これは、1770年のいわゆる相続和議 (Erbvergleich) の結果であった。ヴュルテンベルクのラントシュテンデたちは、ヴュルテンベルク公が法的な権限を逸脱しているとしてウィーンの帝国顧問官会議ドイツ語版英語版で訴えた。ラントシュテンデの見地からすれば公爵は、公爵とラントシュテンデとの間で法的権限を区分した1514年のテュービンゲン条約をないがしろにしていた。帝国顧問官会議はヴュルテンベルクのラントシュテンデの権利を認め、絶対君主制を目指していたカール・オイゲンに対してシュトゥットガルトで会議を行っているラントシュテンデに歩み寄るよう命じた。シュトゥットガルトへ向かう宮廷の行列は、公爵の宥和を象徴するジェスチャーとして構想された。ルートヴィヒスブルクにとってそれは、新たな衰退を意味していた。1775年以後多くの建物が空き家となり、公園施設は荒廃し、道路には雑草が生えた。当時ルートヴィヒスブルクは「グラスブルク」(直訳: 草の城)と揶揄された。この状態は、フリードリヒ2世公(後の初代ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世)の治世が始まるまで続いた[29]

フリードリヒ1世王治世下のルートヴィヒスブルク

ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世(ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世)
庭園の池越しにルートヴィヒスブルク城を望む

1797年フリードリヒ2世公は、ルートヴィヒスブルクを夏の宮殿とすると宣言した[20]。公園施設や、なにより宮殿が、宮廷建築家ニコラウス・フリードリヒ・フォン・トウレットによって最新モードの古典主義様式に改築された。1798年から1804年に城の庭園がイギリス式風景庭園に改造された。並木道を基本構成要素として残し、1800年までに(おそらくフリードリヒ自身が決定した計画に基づき)南の庭に城と運河でつながれた大きな楕円形の池「エパウレッテン=ゼー」が造られた[30]。宮殿の東の深い堀はロマン主義的なエーミヒブルクの完璧な立地となった。庭園施設の整備と同時に、ファヴォリーテ城やモンレポス城の内部に時代の趣味に合わせた装飾がなされた。

ルートヴィヒスブルクはフランス皇帝ナポレオン1世による欧州新秩序ナポレオン・プランの恩恵を受けた。このプランは、プロイセンオーストリアとの間にパリに従順な第三勢力をヴュルテンベルクなどの中規模国家から形成するものであった。ドイツの中規模国家は、その立地から、出兵してフランスを支援するのには有効であったが、フランスに対抗するほどの力はなかった。1803年にヴュルテンベルク公は選帝侯に昇格した。世俗化と陪臣化によりヴュルテンベルクは多くの領土を獲得した。それまでの公爵が獲得しようと戦ってきたこの昇格をフリードリヒは宮殿の内装で強調している。

しかし、1805年10月2日にナポレオンが多くの随員を連れて宮殿前に現れ、工事は中断した[31]。ナポレオンは第三次対仏大同盟との戦いに軍を進める途上であった。この招かれざる客が現れたとき、ルートヴィヒスブルクのヴュルテンベルクの宮廷は、フリードリヒの息子パウル公子の結婚の祝宴の真っ最中であった。それでもフリードリヒは、身分にふさわしい馬車でナポレオンを迎え入れた。フリードリヒは豪華な演出で皇帝を宮殿に招き入れた。ナポレオンは、宮廷の慣例に従い、礼儀正しく、丁寧であったため、選帝侯妃シャルロッテ・マティルダの信頼を勝ち得た[32]。1805年10月3日にナポレオンは、王の会議室で行われた1時間半にわたる会談の末、フランスとヴュルテンベルクとの間で同盟を締結することに成功した。フリードリヒは当初ナポレオンに対して中立を主張したが、ヴュルテンベルクの大半がすでにフランス軍によって占領されていたため、同盟を拒絶することはできなかった。フリードリヒはナポレオンに対して8千人から1万人の兵力と戦う用意がある宣言した。これに対してナポレオンはフリードリヒにヴュルテンベルクのラントシュテンデの権力削減における後ろ盾になることを約束した。さらにナポレオンは、ヴュルテンベルクに対して領土上の利益も約束した。ヴュルテンベルクはフランスとの同盟のために、強制はされなかったが神聖ローマ帝国から脱退した[33]。後にナポレオンは書簡で、フリードリヒの自信に満ちた知的な態度に敬意を表している。

ナポレオンの要請でフリードリヒは1806年1月1日に王国を樹立した。この新しい称号は、ルートヴィヒスブルクに堂々たる宮廷を建設することを促した。たとえば、オーデンスザールは玉座の間に改築された。この部屋では、世俗化の過程を見ることができる。緞子で造られた玉座の天蓋には、ヴユルテンベルク王国に併合されたオーバーシュヴァーベンの修道院から押収された典礼用の布地が用いられている。

1812年ナポレオンのロシア遠征のためのヴュルテンベルク軍がルートヴィヒスブルクで編成された。15,800人の兵士のうち、帰還できたのは約500人だけであった。

近現代

シナゴーグの設計図

この街には19世紀からユダヤ人家族が住んでいた。彼らは、アレーン/エッケ・ゾリトゥーデ通りにシナゴーグを建設し、1884年に完成した。ユダヤ人の死者は1870年からは旧ユダヤ人墓地、1904年から新ユダヤ人墓地に葬られた。この墓地はそれぞれ新旧市営墓地[34]の隣に設けられていた。

1860年頃のルートヴィヒスブルク駅

1846年10月5日、新設されたルートヴィヒスブルク駅ドイツ語版英語版に最初の列車が入線した。当時は、王立ヴュルテンベルク邦有鉄道中央線の北の終点であったが、1848年にヴュルテンベルク邦有鉄道は北のハイルブロンまで線路を敷設した。

1921年、ルートヴィヒスブルクに、南西ドイツ最大の兵舎が建設された。このためこの街は、「シュヴァーベンポツダム」という別名で呼ばれた。

1926年の南北送電線建設に伴い、ルートヴィヒスブルク=ホーエネックに変電所が設けられた。この変電所は現在もバーデン=ヴュルテンベルク州電力網の中心的な結節点となっている。1935年にルートヴィヒスブルクは、ドイツ市町村法に基づきシュタットクライス(都市郡)を宣言したが、引き続きアムト・ルートヴィヒスブルク(1938年からはルートヴィヒスブルク郡)に属していた。

水晶の夜に焼失したシナゴーグ

1988年に敷石でその平面図が示された。殺害された人の名を記したトランクがホロコーストのユダヤ人犠牲者を追悼している。記念プレートは、人間性と人権を忘れるなと警告している。ナチの宣伝映画「ユダヤ人ズュース」は1940年にルートヴィヒスブルクで撮影された。

第二次世界大戦中この街は、他のドイツの都市と同様に、激しい破壊に苦しめられた。およそ1,500人の市民が亡くなったと推定されている。爆撃によって、ルートヴィヒスブルクでは140棟の家屋が全壊した[35]。ルートヴィヒスブルク全体の 2 % が破壊された[36]1945年以後1946年半ばまで、戦争指導者を収容する連合国の収容所が設けられた。

クラベンロッホ兵舎

アメリカ軍は、戦後約45年にわたって、この街の外れに大規模なパットンヴィル駐留地を設けていた。ここにはハイスクールもあった。その他に以下の施設があった: フラーク兵舎、カールス兵舎、コフィー兵舎、クラベンロッホ兵舎、マーフィー兵舎、ヴァルデツ兵舎。1956年ドイツ連邦軍は兵舎の街としての伝統を再開した。連邦軍はルートヴィヒスブルク市内に3つの兵舎を設けた: ルイトポルト兵舎、エーバーハルト=ルートヴィヒ兵舎、イエーガーホーフ兵舎である。連邦軍は1994年にこれらの施設を放棄した[37]

1945年にルートヴィヒスブルクは郡庁所在地となり、バーデン=ヴュルテンベルク州自治体法が発効した1956年4月1日に大規模郡都市となった。

1957年、ルートヴィヒスブルク=ホーエネック変電所とロンメルスキルヒェンとの間で、ドイツ最初の 380 kV 送電線が運用開始された。

1958年に、国家社会主義犯罪を解明するための中央司法機関がルートヴィヒスブルクに設けられた。1966年には、教育大学とルートヴィヒスブルク州立スポーツ学校が開設された。

1962年9月9日、シャルル・ド・ゴールは、ドイツ訪問の最終日にドイツの若者に向け講演を行った。シュロスホーフ(城館の中庭)に集まった5,000人の聴衆を前に行われたこの講演は、独仏関係のマイルストーンとなった[38]

シュロスパーク(城館庭園)のフォーラムは1988年3月19日に完成した。

ルートヴィヒスブルク城は、2004年に建造300年を祝い、バロックギャラリー、モード博物館、陶磁器博物館が開館した。ルートヴィヒスブルク市交響楽団は、「侯爵、市民、兵士」やヴォルフラム・グラーフのオラトリオ「月の日」といった音楽で歴史を回顧した。ルートヴィヒスブルクの合唱団や舞踊アンサンブルも共演した。これは、1996年、200年に次ぐ第3回の大規模なルートヴィヒスブルク文化プロダクションであった。

市町村合併

以下の町あるいは集落がルートヴィヒスブルクに合併した:

  • 1901年: エグロスハイム
  • 1903年: プフルークフェルデン
  • 1906年: ザロン小集落とカールスヘーエ小集落(コルンヴェストハイムから)
  • 1922年: オスヴァイル
  • 1926年: ホーエネック
  • 1956年: グリューンビュール住宅地(コルンヴェストハイムから)
  • 1974年1月1日: ネッカーヴァイインゲン[39]
  • 1975年1月1日: ポッペンヴァイラー[40]

訳注

  1. ^ ドイツでは人口2万人から10万人の都市を中規模都市 (ドイツ語: Mittelstadt) と位置づける。
  2. ^ 中級中心 (ドイツ語: Mittelzentrum) とは、地域計画上あるいは経済政策上の都市カテゴリである。中級中心都市には病院、文化施設、商店街またはショッピングセンターが存在する。
  3. ^ 大規模郡都市 (ドイツ語: Große Kreisstadt) の定義は州によって異なっている。バーデン=ヴュルテンベルク州では、人口2万人以上の郡に所属する都市を意味する。
  4. ^ ドイツ語: Brony は、アニメシリーズ「マイリトルポニー~トモダチは魔法~」のファンを指す。

出典

  1. ^ Statistisches Landesamt Baden-Württemberg – Bevölkerung nach Nationalität und Geschlecht am 31. Dezember 2021 (CSV-Datei)
  2. ^ Max Mangold, ed (2005). Duden, Aussprachewörterbuch (6 ed.). Dudenverl. p. 520. ISBN 978-3-411-04066-7 
  3. ^ “Ludwigsburg zieht an Esslingen vorbei”. Ludwigsburger Kreiszeitung. (2013年12月30日) 
  4. ^ 記念碑の銘文に「Württembergische Landesvermessung 1820 – Basis Solitude-Ludwigsburg – Länge 13032,14 m – Endpunkt in der Straßenachse」(直訳: 1820年のヴュルテンベルク国土測量 - ゾリトゥーデ=ルートヴィヒスブルク基準線 - 全長 13032.14 m - 道路軸の終点)とある。
  5. ^ Übersicht Einwohner Jahresfortschreibung 2015
  6. ^ Ermittelt aus der Stadtplanauskunft Ludwigsburg (Memento des Originals vom 21. 6月 2016 im Internet Archive) 情報 Der Archivlink wurde automatisch eingesetzt und noch nicht geprüft. Bitte prüfe Original- und Archivlink gemäß Anleitung und entferne dann diesen Hinweis.@2Vorlage:Webachiv/IABot/logis.ludwigsburg.de
  7. ^ Fläche seit 1996 nach tatsächlicher Nutzung - Statistisches Landesamt Baden-Württemberg - Stadt Ludwigsburg”. 2020年3月31日閲覧。
  8. ^ Wolf Deiseroth; Daniela Naumann; Adelheid Hanke; Alois Schneider (2004). Denkmaltopographie Baden-Württemberg. Band I.8.1. Stadt Ludwigsburg. Stuttgart: Theiss. ISBN 978-3-8062-1938-8 
  9. ^ Ulrich Brandl; Emmi Federhofer (2010). Ton + Technik. Römische Ziegel. Stuttgart: Theiss. ISBN 978-3-8062-2403-0 
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