プリンス自動車工業 沿革

プリンス自動車工業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 10:16 UTC 版)

沿革

電気自動車メーカー時代

  • 1945年 石川島飛行機製作所(石川島重工業系)を前身とする立川飛行機は終戦後から民生分野に進出を目論んだ。燃料事情の悪い時期であったため、バッテリーを搭載した電気自動車の開発を志す。戦前の有名小型車メーカーで、戦時体制下で立川飛行機の系列企業となっていた高速機関工業(ブランドは「オオタ」)からシャーシ技術を導入、開発を進めた。
  • 1946年 3月、自動車産業への転換申請。11月、オオタトラックベースの試作車「EOT-46」完成。同時に工場はアメリカ軍に接収、軍管理下におかれアメリカ極東軍の自動車修理工場とされることが決定。外山保をリーダーとする自動車部門は独立を決意する。接収された工場内の資材、機械設備を借り受けることが認められた。東京北多摩郡府中町の府中刑務所隣、日本小型飛行機グライダー工場跡で活動を開始。モーター製作は日立製作所、搭載バッテリー開発は湯浅電池の協力を得た。
「たま(乗用車型)」
  • 1947年 立川飛行機がGHQの指令により企業解体。4月、トラック「EOT-47」完成。6月、東京電気自動車として法人化(実質的な創立)。最初の市販形電気自動車を発表、工場地元の地名にちなみ「たま」号と命名。最高速度35km/h、航続距離65km。ホイールベース間のシャーシを部分的に切り欠いて側面からスライド脱着できる電池ケースを搭載し、電池交換で充電時間を節約するアイデアをすでに採用していた[注釈 1][注釈 2]。当時の電気自動車の中で群を抜いた性能で注目を集める。乗用車形とトラック形があった。なお、のちに乗用車型の1台は現在の日産自動車に静態保存されたが、2010年9月7日に実際に運転できるように同社で復元された上で公開された[3]
  • 1948年 より大型化・高性能化を狙った新型車「たまジュニア」・「たまセニア」を開発。横置きリーフスプリングによる前輪独立懸架と油圧ブレーキを採用、一方でバッテリーは固定搭載式に変更。セニアにはX型クロスメンバー入り低床フレームを採用した。商業的成功で電気自動車市場をリードする存在となったが、さらに企業としての安定を図るため、外山の義父で自由党代議士でもあった画商鈴木里一郎に依頼し、鈴木の顧客であったブリヂストン会長・石橋正二郎に出資を請う。以前より自動車製造への関心があった石橋は検討の末、翌年出資をおこなう。
  • 1949年 2月、石橋正二郎、鈴木里一郎が出資を行い、石橋は会長に就任。石橋の意向で鈴木里一郎が社長となる。以後は日産との合併まで、ブリヂストンおよび石橋家との関係が強くなる。11月、府中から三鷹に移転。同時にたま電気自動車に社名変更。車の名前と同じ社名とした。
    • 「ジュニア」「セニア」は1948年下期から1949年上期にかけ、木骨ボディから全鋼製ボディにマイナーチェンジ、ホイールベース拡大で性能を向上。最上級モデルのセニアはホイールベース2400mm、自重1.9t以上(重量の相当部分がバッテリーであった)という堂々たる中型セダンとなり、最高速度55km/h、航続距離200kmという当時の日本製電気自動車最高水準の性能に到達する。
  • 1950年 朝鮮戦争勃発に伴う特需で、バッテリーの主たる資材となるの市場価格が高騰し、バッテリーのコストが急騰したため、電気自動車は価格競争力を失う。打開策としてガソリン自動車生産への転換を企図し、11月、エンジン開発契約を旧中島飛行機 東京製作所(荻窪)および浜松製作所を母体とする富士精密工業と交わす。
  • 1951年 たま自動車に社名変更。在庫の「ジュニア」「セニア」のボディとシャーシは高速機関工業でオオタ車用ガソリンエンジンを搭載してオオタ・ブランドで販売することで処分した。全株を保持していた日本興業銀行は富士精密工業が自動車に乗り出すことには賛成していなかった。このため、すべてを興銀から石橋が買い取ることで解決される。これにより富士精密工業株主は日本興業銀行から石橋正二郎となり、また石橋自身が富士精密工業会長に納まることで、この後の合併の布石となっていく。

ガソリン自動車メーカー時代

  • 1952年 当初からガソリン車として開発した初めてのモデルである1500cc車「AISH型乗用車」「AFTF型トラック」を発売。車名は当初「たま」と予定されていたが、当時の皇太子明仁親王が同年に立太子礼を行うことから、これを記念して「プリンス」と命名。会長・石橋の案とされ、響きの良さを狙った外国語車名採用の早い例。3月、ブリヂストン本社ビルにて展示発表会をおこなう。11月には、社名もプリンス自動車工業に変更。同年、プリンス自動車販売が設立される。
    • 新開発の富士精密FG4Aエンジンは当時日本の小型乗用車用エンジン中最大の1500cc45PSで、形式名は「富士精密のガソリンエンジン4気筒型」の意を略したもの。石橋正二郎が以前から所有していた自家用車・プジョー202の1200ccエンジンを参考に拡大設計したOHVエンジンであるが、以後10年以上に渡り大改良を受けつつ、「FGA」→「GA4」→「G-1」と名称を変えながら、プリンスの主力エンジンとなった。
    • AISH乗用車(プリンス・セダン)は4速シンクロメッシュ・ギアボックスやコラムシフト、油圧ブレーキや低床シャーシを備え、1952年当時もっとも進歩的かつ最大の日本製乗用車であった。もっとも前輪は固定軸であり、再び独立式となるのは1956年である。最初の試作車の完成は先行したトラックよりも遅く1952年2月15日だったが[4]、耐久試験も十分に行われないままわずか8日後には運輸省の公式試験を受け、翌月3月7日には発表・発売に踏み切った(ここまで無謀な新車発売はほとんど他例がない)。しかも試作2号車は東京工業大学に公用車として販売してしまった。車格や排気量が輸入車並みに大きいことから市場の注目を集めたが、耐久試験なども十分に為されないまま量産に突入したため、ユーザー・生産の両面でトラブルの連続となり、乗用車メーカーとしての安定した操業にしばし時間を費やすことになった。一方、すでに1951年11月に試作完成していた1.2t積みトラックは、余裕を持った耐久性重視の設計によって当時の市場で好評を得、主力製品となった。
  • 1954年 2月、営業強化のため、東京営業所を母体に販売会社のプリンス自動車販売(プリンス自販)を設立。4月、懸案であったプリンス自動車工業と富士精密工業の合併が実現、存続社名を富士精密工業とする。10月、東京都港区三田にプリンス自販本社ビル完成。
  • 1955年 同年から三鷹工場での設備合理化計画を開始、合理的な量産体制の構築で、大幅な生産コスト低下や品質向上を図る。同年、日本の小型トラックでも先駆的なフル・キャブオーバー型車となった「AKTG-1型」を発売。荷台を大幅に拡大できるメリットがあり、他社に先鞭を付ける。以降も販売の主力は常にトラック・バンであった。
  • 1955年 工学博士・糸川英夫とともに日本初のペンシルロケットを開発、この固体燃料ロケットの技術は日産からIHI(IHIエアロスペース)へと引き継がれ、現在の固体燃料ロケットの基礎となった。
  • 1956年 プリンス・セダンのビッグマイナーチェンジ型としてAMSH型乗用車を発表。前輪にウィッシュボーン式独立懸架を採用し、競合メーカーに対抗する。
  • 1957年 初代スカイライン発売。シャーシ設計を刷新、日本で初めて後輪懸架にド・ディオン・アクスルを採用した。同じ頃、600ccクラスの空冷式リアエンジン小型大衆車「DPSK型」の開発を進め、1959年には試作車を完成させたが、資金事情から量産化は頓挫した。
  • 1959年 初代グロリア発売(1900cc。戦後の日本製乗用車としては初の普通車(3ナンバー)規格乗用車となる。なお1960年に5ナンバー車(小型乗用車)の規格が1500cc以下から2000cc以下に変更されたため、以後はグロリアも5ナンバーとなる)
  • 1960年 「自動車事業5か年計画」で1964年完了を目標とした200億円以上(当時)の大規模設備投資を開始。住友銀行とプリンス自販との提携で自動車ローンを制度化し提供開始。
  • 1961年 2月、社名を「プリンス自動車工業」に変更。3月、東京都下で村山工場の建設着工。12月、自動車以外のミシンなどを主力としていた浜松工場を子会社のリズムフレンド製造として分社化。旧・富士精密系の航空産業部門は残存したが、すでに収益の9割以上がこの時点で自動車にシフトしていた。
  • 1962年 イタリアのジョヴァンニ・ミケロッティにデザインを依頼した「スカイライン・スポーツ」を発売。イタリア人デザイナーへのデザイン発注は日本でも極めて早い時期の試み。商業的には失敗で60台弱がハンドメイドされるに留まった。
  • 10月、村山工場操業開始。テストコースをも備えた大工場で、以後の主力工場となる。9月、プリンス自販は三田の本社ビルを8階建てに改築、販促強化を図る。
  • 1963年 前年に発売されていた二代目グロリア(S40型)に、直列6気筒SOHCエンジン「G7型」(2000cc、105PS)を搭載した「グロリア・スーパー6」を追加。日本製の本格的な量産乗用車としては初のSOHCエンジン搭載車。以後競合他社も追随し、日本車においてSOHC機構の普及するきっかけとなる。
  • 1964年 5月3日、鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリ「GT-2」クラスで、プリンス・ワークスチームの「スカイラインGT」が上位入賞。以後、日産合併後に至るまでの「スカイライン伝説」の端緒となり、モータースポーツでのイメージアップに貢献。同年10月からエンジン生産は村山工場に集約、三鷹工場はドライブトレーン周りの生産に移行した。
  • 1965年 5月、日産自動車との合併計画を発表。
  • 1966年 8月1日日産自動車と合併(日産自動車による実質的な吸収合併)。

合併に至るまでの経緯

プリンスが日産と合併せざるを得なくなったのは、主に以下の要因があるとされる。

  • 1つ目は、プリンス自体の経営不振である。いびつな車種構成により他メーカーとの競争力を欠いていたプリンス自動車工業本体の黒字を出す目的で、販売部門であるプリンス自販に在庫を強制引き取りさせていたため、値引きによる在庫処分を強いられ、自販は慢性赤字経営に陥っていた。
  • 2つ目は、当時の通商産業省の自動車業界再編計画の存在である。1965年、外国車の輸入自由化を控えた通商産業省(当時)が、乱立する国内メーカー同士の潰し合いを避けるための業界の整理統合を目論み、これに伴う行政指導を行ったことから、自動車業界再編の機運が盛り上がっていた[5]
  • 3つ目は、プリンス会長の石橋正二郎が、タイヤメーカーのブリヂストンの経営者でもあったことである。プリンスの最大出資者であるブリヂストンにとって、自動車用タイヤ生産拡大に際し、プリンス以外のメーカーとの取引に支障が発生する可能性を配慮する必要があった。そのため、石橋は他社との合併という苦渋の決断をせざるを得なかった。

石橋は当初、自らトヨタ自動車工業に合併話を持ちかけた[5]。プリンス自動車のメインバンクであった住友銀行の頭取・堀田庄三は、同行から専務・小川秀彦をプリンスに社長として出向させ、トヨタとの救済合併ならびに住友銀行とトヨタグループの取引再開を画策した。

住友銀行ではプリンスを合併することにより、当時は西日本の愛知県にしか生産拠点を持たなかったトヨタが、東日本の東京に工場を持つことができるメリットを説いた[6]。しかし、トヨタの経営危機の際に住友銀行が融資を拒絶したことに起因する深刻な遺恨があった。そして、トヨタへの融資を拒絶した住友銀行の担当者が、まさに住友銀行の融資担当常務だった堀田と、住友銀行名古屋支店長だった小川であったのである(住友銀行#トヨタ自動車との確執も参照)。

これらの経緯もあり、プリンスの経営悪化の内情を知っていたトヨタは、この合併話をきっぱりと断っている[6][注釈 3][注釈 4]

石橋は「トヨタと縁がなければ、他のメーカーに持っていかざるを得ない」と言い残し、日産との合併を進めた[5]

プリンスと日産が合併に至るまでの水面下の交渉では、当時の通産大臣であった桜内義雄自ら、会長の石橋正二郎と日産社長の川又克二および取引銀行間の調整に奔走した。

合併後

日産との合併後は、それまでの旧プリンスの従業員、工場、ディーラー網、そして当時の生産モデルであったグロリア、スカイライン、クリッパー、マイラー、ホーマー、ホーミー、ライトコーチなど、旧プリンスの車種は日産に引き継がれた。 「プリンス自動車工業」の販売部門会社「プリンス自動車販売」は、日産との合併後「日産プリンス自動車販売」に社名変更され、日産本体とは別組織の全国プリンス店系列販売統括会社として、日産本体で販売統括していた日産店系列、モーター店系列、サニー店系列、チェリー店系列とは異なり、旧プリンスの名残を継承して独自展開されていたが1986年10月1日付で日産本体の「日産自動車販売」へ統合された。

旧プリンスはスカイラインと桜井真一郎の存在感こそ大きかったものの、日産社内では傍系グループとして扱われ、1970年代以降日産への一体化が進められ、数年間でバッジエンジニアリングによる製品統合や車種整理を進め、従業員対策では当時の経営陣と癒着していた多数派の日産労組へプリンス系労組を吸収するなどの施策を採り、独立メーカーとしての存在感は早期に喪失されている。

また、旧プリンスと日産では車両型式のルールが異なっていたが、これらについても日産との合併後、フルモデルチェンジやマイナーチェンジを機に日産式の型式に変更されたほか、旧プリンスで開発し日産との合併以降に発売された車種では、開発途上では旧プリンス式の型式が与えられた車種が存在する。

旧プリンスのガソリンエンジンはすべて「G」で始まる型式が与えられていたが(元々、プリンス社内でガソリンエンジンを表す記号だった)、合併後も日産に型式が「G」で始まるエンジンがなかったため、日産式(数字は排気量を表す)の型式に変更したうえで1970年代半ばまで旧プリンスの各車種やローレル[注釈 5]に搭載されていた。

プリンスの名残

プリンスの丘公園(東京都武蔵村山市)

プリンス自動車時代の名残は現在、「スカイライン」の車名と、かつては三菱自動車工業から、現在はスズキからOEM供給されている軽貨物トラックバンの車名として復活採用された「クリッパー」の車名、「日産プリンス○○販売」(旧・レッドステージ)の各販売会社名、村山工場の跡地の一部に整備された武蔵村山市市営の都市公園「プリンスの丘公園」、海運会社の「プリンス海運」の社名とロゴデザイン、および自動車専用船「ぷりんすはやて」の船名に受け継がれている。プリンス海運の所有船のファンネルマークには、プリンス自動車の「P」文字マークが描かれている。


注釈

  1. ^ この手法自体は日本で先例があった。大阪市の中島製作所が、湯浅電池の協力を得て1933年に開発したバス用の電気自動車シャーシ「YKN型」は、大断面のペリメーターフレームのホイールベース間にフレーム左右を貫通したバッテリー用トンネルを設置し、充電池ユニットをピットでスライドさせて迅速に交換できる構造を実現した。中島YKNはその後「SKS」と改名しながら戦時中まで生産が続いていた。その構造が湯浅電池経由で「たま号」開発時の参考にされた可能性は高い。
  2. ^ なお、1933年以降の中島YKNバスが駆動軸の後車軸に近接してモーターを搭載する、内燃機関モデルで言う「リアエンジン」相当(プロペラシャフトがあると左右貫通式のフレームは採用できない)で、更に改良型ではモーター軸を後車軸と並行にする合理化まで図っていたのに比し、「たま号」は試作車から最終期の「ジュニア」「セニア」に至るまで前方ボンネット内にモーターを搭載して後車軸をプロペラシャフト駆動する通常のFRレイアウトであり、手法自体は保守的であった。
  3. ^ 『小説 日銀管理』の原作冒頭と最後に、住友銀行によるプリンスとトヨタ(作中は「アイチ自動車」、原作ではトヨタ側関係者のみ仮名となっている)の合併話の持ち込みと破談に至る経緯が詳述されている。ただし、この小説が2014年に『LEADERS リーダーズ』としてテレビドラマ化された際、トヨタと住友銀行の融資に関する激しい対立については描かれたが、プリンスとトヨタの合併話は完全にカットされた。
  4. ^ 「トヨタ75年史」の関連項目では、住友銀行については一切触れられていない。
  5. ^ 初代ローレル(C30型系)は元々日産で開発された車種であり、エンジンは日産のL型を搭載し生産も追浜工場で行う予定だったが、開発途中で日産・プリンスの合併劇があり、その際の諸事情でエンジンがプリンスのG型に変更され、生産を村山工場で行うように変更された経緯がある。その後、2代目以降のローレルはプラットフォームが歴代のスカイラインと共通化された。

出典

  1. ^ a b 昭和31年(1956) - 東京証券取引所20年史(渋沢社史データベース)
  2. ^ 松下宏 2008, p. 20.
  3. ^ “電気自動車:63年前に発売の車両 日産自動車が復元”. 毎日新聞. (2010年9月7日). オリジナルの2010年9月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100907184155/http://mainichi.jp/select/biz/news/20100907k0000e040020000c.html 
  4. ^ 松下宏 2008, p. 21.
  5. ^ a b c トヨタ自動車 (2012年11月2日). “トヨタ自動車75年史”. トヨタ自動車. トヨタ自動車. 2023年6月3日閲覧。
  6. ^ a b 本所次郎 (1996-06-20), 小説 日銀管理, 光文社, pp. 308, ISBN 978-4334722463 
  7. ^ 荻友会編 『「プリンス」荻窪の思い出 - II』 私家版 1997年11月16日刊
  8. ^ 桂木洋二著 『プリンス自動車の光芒』 2003年10月22日 グランプリ出版刊 ISBN 4-87687-251-1
  9. ^ 昭和36年(1961) - 東京証券取引所20年史(渋沢社史データベース)
  10. ^ 昭和40年(1965) - 東京証券取引所20年史(渋沢社史データベース)
  11. ^ 昭和41年(1966) - 東京証券取引所20年史(渋沢社史データベース)






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