NATOによる空爆の対象に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:49 UTC 版)
「コソボ紛争」の記事における「NATOによる空爆の対象に関して」の解説
攻撃目標の選定についても批判がある。ドナウ川にかかる橋への攻撃は、その後数箇月にわたってドナウ川の水上交通を遮断し、ドナウ川沿いの国々の経済に深刻な影響をもたらした。生産設備も攻撃を受け、多くの町の経済を破壊した。後に、セルビアの反体制派らは、ユーゴスラビア軍が民間の工場を武器生産に使用したと主張した。チャチャクにあるスロボダ(Sloboda)の真空クリーナー工場は戦車の修復にも使われ、クラグイェヴァツにあるザスタバの工場は、自動車とともにカラシニコフ銃を生産していた。だが、自動車と銃の生産場所はそれぞれ離れた別の建物であった。国有の工場のみが標的とされており、そのため、外国資本主導による民間ベースでの再建まで見据えて空爆の標的が選ばれたのではないかとの疑念を持たれた。私有、あるいは外国資本の生産施設は一切攻撃を受けていなかった。 最も批判の強かった空爆対象は、4月23日に行われたセルビアの公共放送の本社への攻撃であろう。この攻撃では少なくとも14人が犠牲となった。NATOはこのセルビア公共放送への攻撃について、ミロシェヴィッチ政権のプロパガンダの道具を破壊するためのものとして正当化した。セルビア国内の反体制派らは、放送局の上層部は攻撃を事前に警告されており、空襲警報が発令されていたにもかかわらず、放送局のスタッフに建物内に留まるよう命じたとして、これを非難した。 ユーゴスラビア国内では、紛争へのNATO介入に対する世論は、強く批判するセルビア人と、強く擁護するアルバニア人に分かれた。しかし、アルバニア人すべてがNATOを全面的に擁護したわけではなく、NATOの攻撃が遅いとしてこれを批判する者もいた。ミロシェヴィッチ大統領に対する支持は落ちていったものの、NATOによる空爆によって、セルビア人の間では民族的連帯感が高まった。ミロシェヴィッチ大統領は事態を放置することはなかった。多くの反体制派らは、特にジャーナリストのスラヴコ・ツルヴィヤ(英語版)が4月11日に暗殺されてからは、生命の危機に脅かされることとなった。ツルヴィヤの暗殺は、ミロシェヴィッチ大統領の秘密警察への批判を高めた。モンテネグロでは、同国のミロ・ジュカノヴィッチ大統領がNATOの空爆とセルビアのコソボでの攻撃の双方に反対し、モンテネグロでのミロシェヴィッチ大統領の支持者によるクーデターへの恐れを表明した。 ユーゴスラビア周辺の国々の反応はより複雑であった。マケドニアは旧ユーゴスラビア諸国のうち、モンテネグロ以外ではセルビアとの戦争を経験していない唯一の国であった。コソボでのセルビア人とアルバニア人の衝突によって、マケドニア国内で多数派であるマケドニア人と、規模の大きい少数派であるアルバニア人との関係が緊迫化した。マケドニアの政府はミロシェヴィッチ大統領の行動を支持しなかったものの、マケドニア国内に流入するアルバニア人難民にも強く共感することはなかった。アルバニアは紛争がコソボとの国境の両側での不安定化につながるものとして、全面的にNATOの行動を支持した。クロアチア、ルーマニア、ブルガリアはNATO空軍機に対して上空通過権を認めた。ハンガリーは当時新しくNATOに加盟したばかりであり、攻撃を支持した。アドリア海をはさんで隣接するイタリアでは、大衆世論は反戦に傾いていたものの、政府はNATOに対してイタリアの空軍基地の全面的な使用権を認めた。ギリシャでは、紛争への反対世論は96%に達した 1999年当時、サッカーJリーグの名古屋グランパスエイトに所属していたユーゴスラビア代表(当時)のストイコビッチがゴールを決めた後に、「NATO STOP STRIKE」と書かれたTシャツを見せるパフォーマンスを行った。
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