NATO介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 07:07 UTC 版)
「NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆 (1995年)」も参照 1995年、第二次マルカレ虐殺によって37人が死亡し、90人が負傷した後、国際社会は明確に包囲する勢力と対峙する姿勢へと転じた。セルビア人勢力が、国際連合が監視する武器集積所を襲撃したとき、NATOの航空機はセルビア人勢力の弾薬庫やそのほかの軍事上の戦略目標を攻撃した。地上での戦闘も激化した。ボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍とクロアチア人武装勢力は1994年3月に停戦しており、両勢力は合同してセルビア人勢力との戦闘を進め、セルビア人側は徐々にサラエヴォやそのほかの場所で支配地域を縮小していった。町の暖房、電気、水の供給も再開された。 停戦は1995年10月に実現され、この年には後にデイトン合意によって紛争が終結した。安定化と正常化の期間が始まり、セルビア人勢力がサラエヴォ周辺から撤退した1996年2月29日、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は公式に、サラエヴォ包囲が終結したことを宣言した。紛争中、20万人を超える市民が、セルビア人勢力の支配下となったサラエヴォ郊外を去った。また多くのセルビア人市民がサラエヴォを去った。
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