NATO事務総長時代
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「ハビエル・ソラナ」の記事における「NATO事務総長時代」の解説
1995年12月5日、ソラナは政治スキャンダルのために辞任を余儀なくされたウィリー・クラースの後任として NATO の事務総長に就任した。就任にさいして、過去にソラナが NATO について批判的な発言があったとして議論を呼んだ。それを示すのがソラナが以前に著した「NATO に NO と言う50の理由」(50 Reasons to say no to NATO) という論文で、このことでアメリカはソラナを危険人物リストに掲載していた。1982年5月30日、スペインは NATO に加盟したが、その年末に社会労働党が政権を獲得したさい、社会労働党やソラナは以前からの反 NATO から親 NATO、親米に路線を変更した。1986年3月12日、スペインでは NATO 残留の是非を問う国民投票が実施され、社会労働党とソラナは賛成運動を展開し、結果残留に賛成とする票が反対とする票を上回った。過去の反 NATO 活動について批判を受けた際、ソラナはその批判は NATO の冷戦からの流れと決別する決意の表れであるとして喜んでみせた。 事務総長就任直後、ソラナはボスニア紛争に関して、12月20日に国連の作戦を引き継ぎ、6万人の兵力を持つ多国籍和平履行部隊 (IFOR) が中心となる NATO の Joint Endeavour 作戦の指揮にあたった。これは前年8月と9月の NATO によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ爆撃のあとにまとめられたデイトン合意に基づくものである。作戦遂行にあたって、ソラナは同盟欧州司令部緊急対応部隊 (ARRC) を展開した。[996年12月、ARRC は活動を再開、3万2千人の兵力を有する平和安定化部隊 (SFOR) が任務を引き継ぎ Joint Guard 作戦を展開、1998年6月以降は Joint Forge 作戦を遂行した。 ソラナの指揮の下、また冷戦後時代に対応して、NATO は政治・軍事機構を再編し、基本戦略を変更した。NATO 加盟国とその交渉相手国との間で異なる要望があがる中でうまく意見を取りまとめたとして、その外交手腕が高く評価された。1995年12月にフランスが NATO 軍事機構に復帰、1996年11月にはスペインも軍事機構に加わった。1997年5月27日、5か月もの長期にわたる困難な交渉の結果、ロシア外相エフゲニー・プリマコフとの間で基本文書に合意、パリで調印した。このできごとはロシアと NATO 中心国との間の戦闘状態が正式に終結したことを意味するものであり、外交上重要なものである。また同日、ヨーロッパの NATO 加盟国と非加盟国との関係改善を目的に、欧州・大西洋パートナーシップ理事会が創設された。7月にはマドリードで旧東側のチェコ、ハンガリー、ポーランドが NATO 入りに向け協議を開始し、1999年3月12日に加盟が実現している。
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