NATOの介入と解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 22:21 UTC 版)
「コソボ共和国 (1990年-2000年)」の記事における「NATOの介入と解体」の解説
コソボ解放軍のゲリラ活動は1999年1月になっても継続され、ラチャクの虐殺(Račak incident)などの国際社会の注目をあつめる事件がセルビア人勢力によって引き起こされた。この年の春にフランスのランブイエで開かれた国際会議では、ランブイエ合意(Rambouillet Agreement)と呼ばれる調停がなされたが、セルビア側の反対により合意には至らなかった。 ランブイエでの和平交渉が失敗したことにより、北大西洋条約機構(NATO)はユーゴスラビアへの空爆を始め、3月24日から6月11日まで続いた。その後ユーゴスラビア政府はNATO主導の平和維持軍KFORと、統治機構のUNMIKがコソボに展開することを認めた。 UNMIKはコソボでの行政、立法および司法の支配権を得て、国際連合事務総長特別代表の下で支配権を行使した。コソボの政治的指導者が政治決定に参加できるように、コソボ暫定評議会(Kosovo Transitional Council; KTC)が設立された。コソボ解放軍は解体され、軽武装の民間危機対処部隊であるコソボ防護隊へと移行した。 UNMIKによってコソボ共同暫定行政機構(Joint Interim Administrative Structure)が設置された時、コソボ共和国は公式に解体された。
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