BRM時代
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F1での活動継続のピンチに立ったラウダであったがマールボロBRMに売り込みをし、BRMへ持参金を持ち込む条件で1973年シーズンのF1シートを確保した。同年、資金稼ぎのために参戦していたBMWアルピナ・ツーリングカーでの活動も、引き続き延長することとなった。 1973年 BRMではマシンの信頼性に問題があり、入賞はベルギーグランプリでの5位のみだったが、各グランプリでリタイアするまでは速さを見せていた。特にモナコグランプリでフェラーリをリードする走りをしたことでエンツォ・フェラーリがラウダに注目。また、BRMで1レースだけチームメイトとして一緒に走り、既にフェラーリへの移籍を果たしていたクレイ・レガツォーニからの推薦もあった。夏には、翌1974年からフェラーリの監督となるルカ・ディ・モンテゼーモロを代理として、フェラーリが正式にラウダを勧誘。BRMとの契約をクリアーし移籍が決まった。そして、BMWアルピナ・ツーリングカー参戦もこの年で終了となった。
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BRM時代
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1960年にはBRMに移籍。当初は目立った成績を残していなかったが、1962年に開幕戦オランダGPで初優勝。最終的にシーズン4勝を挙げ、ロータスのクラークを破って、一気にドライバーズチャンピオンへと昇りつめた。 その後もリッチー・ギンサーとの名コンビで活躍し、クラークと並び当時のF1界の2大スタードライバーと呼ばれた。1964年は最終戦までチャンピオン争いがもつれたが、ポイントリーダーのヒルはフェラーリのロレンツォ・バンディーニに追突され、チャンピオンをフェラーリのジョン・サーティースに奪われた。フェラーリが故意にぶつけたのではという報道に対し、ヒルは皮肉混じりに「わざとではない、ただ恐ろしく運転が下手だっただけだ」とコメントした。 初優勝の1962年からは1965年まで、毎シーズン2勝以上を挙げる活躍を見せていたが、新加入のジャッキー・スチュワートに迫られる場面が増えていた。1966年はレギュレーションの変更に因む混乱により苦戦を強いられ、6シーズンぶりの未勝利に終わってしまう。ヒルは成功を共にしたBRMを離れ、ライバルチーム、ロータスへの移籍を決意する。
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BRM時代
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「ジャン=ピエール・ベルトワーズ」の記事における「BRM時代」の解説
1972年 BRMの初年度となった1972年は、全12戦中開幕戦アルゼンチンGPを欠場したため、11レースへの参戦となった。豪雨の第4戦モナコGPでは、予選4位からスタートでトップを奪取し、そのまま終始トップを走り続け初優勝。FLもマークしており、2位のジャッキー・イクスに28秒差をつけての完全勝利だった。しかしシーズンを通しては、モナコGP以外は表彰台はおろか、入賞すら無しという結果に終わる(ランキング11位)。 1973年 1973年も不振が続き、全15戦中8回のリタイヤを喫した。そんな中でも4位1回・5位3回と計4度の入賞を記録するが、表彰台にあがることは出来なかった(ランキング10位)。 1974年 1974年は、それまでチームのスポンサーだったマールボロが離れてしまい、資金難の中でのレースとなるが、開幕戦アルゼンチンGPで5位に入る。第3戦南アフリカGPでは2位に入り、久々に表彰台にのぼった。また第5戦ベルギーGPでも5位に入るが、以降は入賞を記録出来なかった。最終戦のアメリカGPでは、デビュー年以来となる予選落ちも喫し、このGPをもってF1からは去っていった(ランキング13位)。
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