ALBドクトリンの創案
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「エアランド・バトル」の記事における「ALBドクトリンの創案」の解説
陸軍機甲学校長であったスターリー将軍(英語版)は、デピュイ大将の腹心として1976年版FM100-5の起草に大きく関与した後、西ドイツに駐留する第5軍団の軍団長として赴任したが、同地で更に戦史の研鑽・洞察を深めるとともに、想定戦場を視察し、ドイツ陸軍の将校とも議論を重ねた。 1977年7月、スターリー大将はデピュイ大将の後任としてTRADOC司令官に着任したが、これらの洞察を踏まえて、第一会戦と防御線一帯に注目した1976年版FM100-5の視点は視野狭窄であったと見做すに至っていた。そして創案されたのが、防御線の向こう側(敵側)に広がる空間と時間に着目し、敵の後方地域から防御線一帯までの地域と、敵が防御線に到着するまでの時間とを活用して機動戦を展開するという構想であり、当初は「セントラル・バトル」と称されていた。 このような縦深攻撃を実現するには、地上火力のみでなく空軍力にも託さざるを得ないと考えられ、1979年10月、スターリー大将のほか陸・空軍の両参謀長、戦術航空軍団(TAC)司令官が参画して、陸・空軍の連携による敵後続部隊の阻止に関する検討が着手された。またこれと並行して、砲兵学校(Artillery School)では陸軍部隊の火力による敵後続部隊の阻止についての研究を進めており、12月にはその成果を「結合戦場」(Integrated Battlefield)コンセプトとして発表した。この構想には防御線の向こう側の地域での戦いと防御線一帯での戦いを関連づけること、そして防御線の向こう側の地域で敵の後続部隊を阻止する戦いの重要性を一層強調したことという2つの特徴があり、特に後者はADに対して提起された「第一梯隊を撃破しても第二梯隊の突進を許せば敗退につながる」という懸念への解答であった。 これと並行して、将来の軍団レベルでの戦い方を検討する「軍団86」(Corps 86)研究が進められていたが、スターリー大将はこれから着想を得て、1980年10月、さらに積極的に敵の後続部隊を阻止する「拡大戦場」(Extended Battlefield)の概念をまとめ上げた。まもなくこのコンセプトはエアランド・バトル(ALB)と称されるようになり、1981年3月、スターリー大将はALBの概念と「軍団86」研究を綴じ合わせたTRADOCパンフレット(TRADOC Pamphlet 525-5: U.S. Army Operational Concepts The AirLand Battle and Corps 86)を刊行した。 これらの新しい戦い方では、戦場が、空間的にも時間的にも拡大したものとして認識することが重視された。明確な防御線は形成されず、防御線の向こう側の地域における戦いと防御線一帯における戦いは、同一の戦いの中の二つの構成要素に分類され、それぞれ「防衛線の敵側奥深くでの会戦」(Deep Battle)及び「至近距離の会戦」(Close-in Battle)と名付けられた。これらそれぞれの戦いの効果を総合することによって、戦いに全体としてのまとまりを持たせるというものであり、積極的な攻撃によって敵を混乱させ、戦いの早い段階から主導権を獲得する戦い方であった。そして1982年には、これらの成果を盛り込んで改訂されたFM100-5が出版され、米陸軍ドクトリンの新たな基礎となった。 このように拡大した戦場においては、陸軍自身の縦深攻撃の能力だけでは不十分であり、これを補うため、空軍が行う対地攻撃の中に「戦場航空阻止」(BAI)の区分が新たに追加された。1983年には陸・空の参謀長がALBドクトリンに関する統合指揮の強化に関する公式覚書に調印し、両軍種は協力関係を拡大した。 またこのように拡大した戦場において、戦いに全体としてのまとまりを持たせるため、持続的な複数の作戦によって発生する「戦役」と、これらを指導するための「作戦術」という概念も導入されており、1986年のFM100-5の改訂でこれらは再定義・体系化された。
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