70系の投入以後
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1951年の初めには、横須賀線と同時に京阪神緩行線にも70系が投入された。当初はモハ70だけの投入であり、横須賀線とはジャンパ栓が違うことから100番台に区分されたほか、塗色も他形式に合わせてぶどう色1色であった。こうして、京阪神緩行線所属車両の大半が3扉車となったことから、1951年から1952年にかけて宮原電車区・明石電車区所属の3扉車について、一部の車両を除いて70系と同様のクロスシートの整備、復活が行なわれた。整備に際し、モハ51001 - 51026については、ギア比を変更して、元からの大鉄所属車と性能を合わせている。その後、1953年の形式称号改正の際にはこれらのクロスシート車はすべて51系に編入されたが、モハ54やクハ68のように、オリジナルの車両より他形式からの改造車のほうが多いといった形式も発生している。 また、1951年11月に白帯車の運行が廃止されると、旧白帯車の運転台側を2等室として仮整備して運行する一方、関東に転出していたクロハ69001、002を明石に呼び帰し、併せて旧クロハ69のクハ55ともども、戦前並みに復元する工事を実施した。この復元工事では単に復元するだけでなく、内装を当時の花形であった特別二等車に合わせてローズグレーの塗りつぶしにしたほか、シートはさすがに戦前同様固定クロスとロングのセミクロスシートであったものの、モケット地もエンジ色として、室内灯のカバーも特別二等車と同じ物を取り付け、後に蛍光灯が実用化されると真っ先に導入されるなど、当時の担当者が「電車の特ロ(特別二等車の略称)」と自負するくらいの凝った内装である。当時新製中だったサロ85・サロ75と比べても遜色ないほどになった。 これらの工事が終了した1953年ごろには、車両面での復興もなしとげただけでなく、多くの面で戦前のレベルを超えたものになっていた。戦前とは違い、3扉クロスシート車で揃えられた編成は(ごく一部に72系やクハ55を組み込んだ編成があったにしても)他線では見られない魅力をもつものであり、「西の京阪神緩行線、東の横須賀線」として多くの鉄道愛好者にもてはやされた。その中でも白眉とでも言うべきクロハ69組み込み編成は、西明石側からクハ68(後にクハ76)+モハ70+モハ70+クロハ69の4両で編成され、ラッシュ時には京都側に2両を増結し、6両編成で運行された。また、クロハを組み込まない編成は3 - 4両で組成された。その後も70系の増備は続き、1954年末からはクハ76も登場、ぶどう色一色で登場したため、「茶坊主」の愛称が付いた。クハ76の配備両数は少なかったことから、基本編成の両端がクハ76という編成はなかったが、基本編成と付属編成の両端の車両がクハ76であったときは、意外な編成美を見せたものである。70系は1957年まで増備され、全金属車の300番台こそ入らなかったものの、合計65両が京阪神緩行線に新製投入され、投入当時のコンセプトどおりの活躍を見せた。また、1956年3月には高槻電車区が開設され、宮原電車区所属の各駅停車用車両が転属している。
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