1997年宗教法
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1991年12月にソ連は崩壊した。ソ連崩壊とともに社会的混乱が生じて、カルト集団が大きな影響力を持つようになった。この頃から正教君主制の復活やロシア正教の国教化を説くロシア正教ナショナリズムが台頭していった。ロシア正教会は「事実上のロシア国教会」を自認し、外国からの宗教活動や宣教師の入国を制限するように政府に圧力をかけていった。 1993年6月、ロシア正教会の要望で、「非ロシア的・非伝統的」な宗教の登録を厳しく規制するゴルバチョフ宗教法改正法案が議会を承認したが、反対もあり廃案となった。 1993年12月12日に制定されたロシア連邦憲法でロシア連邦は世俗国家であり、宗教団体と国家は分離され(第14条)、信教の自由が保障された(第28条)。 1996年7月のロシア国家会議は新宗教法改正案を作成し、信教の自由の保障を原則としていたのに対して、ロシア正教会は「非ロシア的・非伝統的」な宗教の排除を求めた。1996年の調査ではロシア正教を肯定する国民は88%にのぼった。 1996年、エリツィン大統領就任式には総主教アレクシイ2世が最前列に並んだ。 1997年9月26日、エリツィン政権で「良心の自由(信教の自由)と宗教団体に関するロシア連邦法」 ( 宗教法 )が発効した。この1997年宗教法は、1990年の信教の自由に関するロシア・ソヴィエト連邦共和国法の改正作業の結果であり、またロシア正教会の意向を相当程度受け入れたものであった。前文で、ロシア連邦は世俗国家であるが、『ロシアの歴史、その精神性および文化の形成と発展における正教の特別な役割を認める』と謳われた。これによって、ロシア正教会は法制上も事実上の国教会の地位を確固たるものにした。また、それに続く前文でロシアの伝統的な諸宗教である「キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、その他の宗教」に触れていることから、正教とこれらの宗教が伝統宗教として明文化されたとされる。良心の自由、信教の自由に対する権利(第3条)、公教育機関における教育の世俗的性格と宗教教育を受ける権利も保障され、世俗国家ロシアにおける国家の宗教的中立と宗教団体の政治的中立が明文化された(第4条)。一方で、国家登録を済ませ15年以上の存続を条件を満たさない宗教団体には法人格を与えないとし(第11条)、外国の宗教組織はロシアで宗教活動はできないとされた(第13条)。さらに、民族的・宗教的不和の煽動や、人間憎悪の煽動、家族崩壊の強制、自殺や医療拒否の勧誘、義務教育の妨害、財産の団体への譲渡の強制などの活動を禁止された。この宗教法の下、宗教組織のヒエラルキーが成立し、最上位を多数派正教とし、イスラム教、仏教、ユダヤ教、ローマ・カトリック、プロテスタント諸宗派までが伝統宗教であるとされ、その他の宗教セクトとして古儀式派、その他のプロテスタント、新宗教運動などが位置づけられた。このように1997年の宗教法は信教の自由よりも、宗教のヒエラルキーを強化しているため、ロシアは「正教国家」に向かっているとも指摘されている。この宗教法は欧米やローマ教皇から批判があったが、エリツィンはロシア憲法とこの宗教法は矛盾しているが、宗教を野放しにすると混乱を生み出すためにこの法を制定したと回顧している。 しかし、この宗教法以後も宗教団体へのロシア政府の扱いには問題が多く発生している。エホバの証人は正教徒7千万人、イスラム教徒900万人、仏教徒90万人に次いで、信徒数28万人に達するロシア第四の宗教団体であるが、エホバの証人に対して検察は団体登録取消訴訟を開始した(エホバの証人側が勝訴)。
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