1997年公判
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「オウム真理教の歴史」の記事における「1997年公判」の解説
1997年4月24日第34回公判 麻原は英語を交えてはぐらかすように意見陳述し、一連の事件の責任を弟子に転嫁し(弟子の暴走)、無罪を主張した。 地下鉄サリン事件:「弟子たちが起こしたもので、(略)私自身の共同共謀につきましては、3月18日夜、村井秀夫にひと袋でストップを命令しましたが、3月19日にもう一度、これは井上嘉浩が正しく話していれば、ストップを命令し、結局、私は彼らに負けた形になり、結果的には逮捕されるんだろうなということで、これは検察庁も裁判長も無罪として認定しています。」と、自分はサリン散布を止めたが、弟子に負けた(暴走した)。 松本サリン事件:「オウム真理教がサリン攻撃を受けており、ここで実験すればサマナが救われるという発想のもとになされた」とし、サリン噴霧で「亡くなったのは魚であり、一番近くの方が重症者であったことを考えるならば、地下鉄サリン事件の本質的なものは殺人ではない、という立証ポイントになったわけです」「検察、裁判所も無罪としたわけです」。 坂本堤弁護士一家殺害事件:「非常に小さな罪で、しかも実行者が5人か3人の小事件であり、一人一人を対応するならば三年か四年の刑」で、自分は指示していないことが明確な事件で、早川が真実を話している。 薬剤師リンチ殺人事件:元信者Oが別の信者の母親を性的に誘惑し、財産を乗っ取ろうとし、麻原をナイフで殺そうとしたので起こったとし、殺害は指示していない、弟子たちが直感的なものによって殺した。 公証人役場事務長逮捕監禁致死事件:事故死で、林郁夫元医師による手当てができなかった 男性信者殺害事件:麻原は絞殺を指示していない、検察も「ハナゾノ裁判長」(不明)も無罪とした、新実も嘱託殺人(被害者からの依頼)だから無罪とした。 1997年5月16日に石井久子が「麻原さんは間違っていた」と意見陳述した。 1997年6月17日林郁夫公判 麻原は初めて証人として出廷した。麻原は「マイ・ネーム・イズ・アサハラ……」「ザット・イズ・ディセンバー……」など拙い英語で小さな声で答えたり、喚きながら、宣誓書への指印を拒否した。裁判長が「正当な理由なく宣誓を拒否すると制裁を受けることになる」と尋ねると、麻原は「いい加減にしろよ」と言い放った。林が「(石井久子が「麻原は間違っていた」と陳述したことを引いて)あなたの態度は、石井被告の心にも及ばない」と言うと、麻原は「いい加減にしろよ!お前のエネルギーは足から出ているのがわからないのか!」と言い、林は「まだそんなことを言っているんですか!そんな大きな声が出るなら、証言すればいい!」と捲し立てた。麻原は「ふざけるなよ」と言い放った。麻原が英語を小声で呟くのを再開すると、林は「そうやって英語を話していれば、その世界に逃げていられるから、いいかも知れない。でも、あなたは、死が怖くて生きていられないから、転生すら信じていないのだろう。宗教はあなたにとって道具に過ぎなかった」と言い、検察官が証言の意思を聞くと、麻原は「林自体、アメリカだから…」と呟くだけで、退廷となった。他の報告では、松本被告は「ここはアメリカだから」と言い、検察官が「質問に答えられないのか」と言うと「バット・アサハラ……」と英語でつぶやいた。
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