1997年公判とは? わかりやすく解説

1997年公判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:35 UTC 版)

オウム真理教の歴史」の記事における「1997年公判」の解説

1997年4月24日第34回公判 麻原は英語を交えてはぐらかすように意見陳述し、一連の事件責任弟子転嫁し弟子暴走)、無罪主張した地下鉄サリン事件:「弟子たち起こしたもので、(略)私自身共同共謀つきましては、3月18日夜、村井秀夫にひと袋でストップ命令しましたが、3月19日もう一度、これは井上嘉浩正しく話していれば、ストップ命令し結局、私は彼らに負けた形になり、結果的に逮捕されるんだろうなということで、これは検察庁裁判長無罪として認定してます。」と、自分サリン散布止めたが、弟子負けた暴走した)。 松本サリン事件:「オウム真理教サリン攻撃受けており、ここで実験すればサマナ救われるという発想のもとになされた」とし、サリン噴霧で「亡くなったのはであり、一番近くの方が重症であったことを考えるならば、地下鉄サリン事件本質的なものは殺人ではない、という立証ポイントになったわけです」「検察裁判所無罪としたわけです」。 坂本堤弁護士一家殺害事件:「非常に小さな罪で、しかも実行者が5人か3人の小事件であり、一人一人対応するならば三年か四年の刑」で、自分指示していないことが明確な事件で、早川真実話している。 薬剤師リンチ殺人事件元信者Oが別の信者母親性的に誘惑し財産乗っ取ろうとし、麻原ナイフ殺そうとしたので起こったとし、殺害指示していない、弟子たち直感的なものによって殺した公証人役場事務長逮捕監禁致死事件事故死で、林郁夫医師による手当てができなかった 男性信者殺害事件麻原絞殺指示していない、検察も「ハナゾノ裁判長」(不明)も無罪とした、新実嘱託殺人被害者からの依頼)だから無罪とした。 1997年5月16日石井久子が「麻原さんは間違っていた」と意見陳述した。 1997年6月17日林郁夫公判 麻原初め証人として出廷した麻原は「マイ・ネーム・イズ・アサハラ……」「ザット・イズ・ディセンバー……」など拙い英語で小さな声で答えたり喚きながら、宣誓書への指印拒否した裁判長が「正当な理由なく宣誓拒否する制裁を受けることになる」と尋ねると、麻原は「いい加減にしろよ」と言い放ったが「(石井久子が「麻原間違っていた」と陳述したことを引いて)あなたの態度は、石井被告の心にも及ばないと言うと麻原は「いい加減にしろよ!お前のエネルギーは足から出ているのがわからないのか!」と言いは「まだそんなことを言っているんですか!そんな大きな声が出るなら、証言すればいい!」と捲し立てた。麻原は「ふざけるなよ」と言い放った麻原が英語を小声で呟くのを再開すると、は「そうやって英語を話していれば、その世界逃げていられるから、いいかも知れないでも、あなたは、死が怖くて生きていられないから、転生すら信じていないのだろう。宗教あなたにとって道具に過ぎなかった」と言い検察官証言意思聞くと、麻原は「自体アメリカだから…」と呟くだけで、退廷となった。他の報告では、松本被告は「ここはアメリカだから」と言い検察官が「質問答えられないのか」と言うと「バット・アサハラ……」と英語でつぶやいた

※この「1997年公判」の解説は、「オウム真理教の歴史」の解説の一部です。
「1997年公判」を含む「オウム真理教の歴史」の記事については、「オウム真理教の歴史」の概要を参照ください。

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