1970年代:インドシナ戦争と中東危機
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「日米関係」の記事における「1970年代:インドシナ戦争と中東危機」の解説
1975年、アメリカはインドシナ半島から撤退した。アメリカの敗戦により至ったベトナム戦争の終結は「東アジアの安全保障における日本の役割への疑問」を意味し、その自主防衛への貢献は両国間の対話において中心課題となった。日本の防衛への努力に対するアメリカの不満は1975年にジェームズ・R・シュレシンジャー国防長官が公然と日本を非難したことで表面化した。日本の政府は憲法上の制約と平和を望む強い世論により制限され、自衛隊のより早い増強を望む圧力に素早く反応することができなかった。1976年に1960年の安保条約の下で規定されていた2国間による安全保障協議委員会の枠組みの中で、日米は防衛協力に関する小委員会を公式に立ち上げた。この小委員会は、両国の軍事計画立案者が主導した日本有事の際の合同軍事行動に関する研究を基に、日米の防衛協力に関する新しい指針を作成した。 経済の分野では、日本は製品のアメリカへの輸出を規制する市場秩序維持協定を結ぶことで合意することによって、政治的問題を生み出していた貿易摩擦を緩和しようとした。1977年、日本からアメリカへのカラーテレビの輸出を規制する市場秩序維持協定が署名され、以前問題となった繊維問題と同様に処理された。アメリカへの鉄鋼の輸出も削減された。しかし、日本による使用済み核燃料の再処理工場の開発に対するアメリカの制裁、牛肉やオレンジなど日本の農産物の輸入規制、資本の投資の自由化と日本国内における政府調達などでは議論が白熱し、問題は続いていた。 安全保障条約を締結している国からの呼びかけにより、世界においてアメリカに代わって負担を担う役割を果たす為、 日本は大平正芳首相が「平和を守るための総合安全保障と防衛の戦略」と呼んだ構想を発展させた。この政策の下、日本はアメリカと世界的な規模において緊密な関係を築くことを模索した。しかし一方的に日本の負担が目立っている。 この政策は急進的なイラン人がテヘランで60人を人質にしてアメリカ大使館を占拠した事件が起きた1979年11月に試された。日本はこの行動が国際法違反であるとして非難した。同時に、伝えられるところによると、日本の商社と石油会社はアメリカがイランからの石油の輸入を禁止し、利用可能になったイランの石油を購入した。この行動は日本政府が石油の購入を許したのは「鈍感である」としてアメリカから激しい批判を浴びた。日本は謝罪し、他のアメリカの同盟国と協調してイランに対する制裁に参加することに合意した。 その事件後、日本政府はアメリカが安定を維持し、繁栄を促進するために計画した国際的な政策を支援するため、より気を使うようになった。ソ連がアフガニスタンを侵略した1979(昭和54)年12月に日本政府がソ連に対して制裁を実行すると発表したことは迅速であり、また効果的だった。1981(昭和56)年に日本政府はアメリカ政府の要求に応え、日本周辺のより広範囲な海域における海上防衛の責任を受け入れ、在日米軍をより支援することを約束した。
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