1954年以降のキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/07 22:11 UTC 版)
「ドン・シャーリー」の記事における「1954年以降のキャリア」の解説
アーサー・フィードラーの招きに応じ、シャーリーは1954年6月に、シカゴでボストン・ポップス・オーケストラと共演した。1955年には、カーネギー・ホールでNBC交響楽団と共演し、エリントンのピアノ協奏曲初演を務めた。またテレビ番組『アーサー・ゴドフリー・アンド・ヒズ・フレンズ(英語版)』にも出演している。シャーリーは1950年代から1960年代にかけてケイデンス・レコードで多くのアルバムを収録したが、その内容はクラシック音楽の影響を受けた実験的なジャズであった。1961年には、彼のシングル『ウォーター・ボーイ』(原題、"Water Boy")がビルボード Hot 100で40位にランクインし、そのまま14週チャートインし続けた。またニューヨークのナイトクラブ「ベイスン・ストリート・イースト(英語版)」で演奏し、ここでデューク・エリントンが演奏を聴いたことから、親交が始まったという。 1960年代、シャーリーは度々コンサートツアーに出たが、その行き先には南部も含まれていた。彼は自身の演奏によって、観客の心が幾分動くだろうと信じていたという。彼はニューヨークのナイトクラブで用心棒として働いていたトニー・"リップ"・ヴァレロンガを運転手兼用心棒として雇った。このふたりの旅路は2018年に映画『グリーンブック』としてドラマ化され、黒人差別が残る南部を旅する上で彼らが参考にしたガイドブック、『黒人ドライバーのためのグリーン・ブック』から題名が付けられた。この作品の中で、最初の内シャーリーとヴァレロンガは性格の違いでぶつかり合うが、最終的にはよき友人となる。この筋書きに対し、ドンと疎遠になっていた兄弟であるモーリス・シャーリーは、「自分の兄弟はトニーのことを決して『友人』と考えてはいなかった、彼は飽くまで被雇用者で、お抱え運転手だった(制服と帽子を着用することには憤慨したが)。こういうわけでコンテクストとニュアンスはとても大事だ。実際の所は、成功して裕福な黒人演奏家が、自分と似て『いない』家事奉公人を雇ったわけで、この事実が伝えられないなんてことはあるべきじゃない」と述べた。 しかしながら、2019年1月に『ヴァラエティ』誌で公開されたインタビューで、トニー・リップの息子であるニック・ヴァレロンガは「彼らは1年半も一緒にいて、その後も友人で居続けた」("They were together a year and a half and they did remain friends") と述べたほか、生前のシャーリー自身が、この話を誰にもするなと語っていたのだと明かした。 また映画の中で、シャーリーは家族と疎遠になり、アフリカ系アメリカ人のコミュニティからも疎外された人物として描かれているが、この点も論争を呼んだ。様々な人の証言によればこの描写は不正確で、シャーリーは1965年の血の日曜日事件をはじめとしたアフリカ系アメリカ人公民権運動に参加しているほか、アフリカ系アメリカ人の演奏家や指導者に多くの友人を持っていたという。また彼には4人兄弟の一員で、家族とも連絡を続けていたという。 1990年代に作曲家のルーサー・ヘンダーソン(英語版)を通じてシャーリーと交友を深めた著述家のデイヴィッド・ハイドゥ (David Hajdu) は、「私の知っている男は、マハーシャラ・アリが周到な優雅さで表現したような人物とはかなり異なっている。知的だが無邪気なほど粗野で移り気、自衛的で、全て(特に音楽)において非完全に耐えることができず、彼独自の音楽のように、複雑でどこかにカテゴライズなんかできないような人物だった」と述べている。 シャーリーはシカゴ交響楽団やワシントン・ナショナル交響楽団との共演歴があるほか、ニューヨーク・フィルハーモニックやフィラデルフィア管弦楽団のために交響曲を書き下ろしている。また作曲家としても活動し、オルガン交響曲、ピアノ協奏曲、チェロ協奏曲1曲、3曲の弦楽四重奏、一幕のオペラ1作、その他オルガン・ピアノ・ヴァイオリン曲、ジェイムズ・ジョイスの小説『フィネガンズ・ウェイク』を基にした交響詩、『地獄のオルフェ』を土台とした一連の「変奏曲」"Variations" も作曲している。 シャーリーは2013年4月6日に、心臓病のため86歳で亡くなった。
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