1954年の統一戦線
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「ベンガル語国語化運動」の記事における「1954年の統一戦線」の解説
政治的緊張は、1954年に行われた東ベンガルの州議会選挙で顕在化した。与党ムスリム連盟は野党統一戦線(英語版)連合を糾弾した。A・K・ファズルル・フクとアワミ連盟によって率いられた野党連合はより大きな州の自治権を望んでいた。複数の統一戦線の指導者と活動家が逮捕された。首相のムハンマド・アリー・ボーグラー(英語版)が議長を務めたムスリム連盟議員の会合では、ベンガル語に公式の承認を与えることが決議された。この決定の受けて、地域言語の公認を求める他の民族集団で社会的混乱の大きな波が起こった。マウルヴィ・アブドゥル・ハク(英語版)といったウルドゥー語の支持者らは、ベンガル語に公的地位を与えるいかなる提案をも非難した。ハクはムスリム連盟の決定に対して抗議するため10万人を超える大規模集会を率いた。その結果として、履行は失敗し、統一戦線が立法議会の議席の圧倒的多数を手にしたのに対して、ムスリム連盟は歴史的に低い議席数に転落した。 統一戦線内閣は、ベンガル語、ベンガル語文学、およびベンガル語の遺産の振興、発展、保存のためのバングラ・アカデミー(英語版)の設立を命令した。しかしながら、総督グラーム・ムハンマド(英語版)が州政府を無効にし、1954年5月30日に総督による統治を開始したため、統一戦線による統治は一時的なものに終わった。総督による統治体制が終わった後の1955年6月6日に統一戦線は再び内閣を組織した。しかし、アワミ連盟はこの内閣には参加しなかった。 統一戦線が権力の座に戻ったことを受けて、1956年2月21日の記念日は初めて平和的な雰囲気の中で祝われた。州政府は新しいショヒド・ミナールを建設するための大プロジェクトを支援した。憲法制定議会のセッションは警察の発砲による学生の虐殺に哀悼の意を表するために5分間中断した。大規模集会がベンガル人指導者らによって組織され、全ての官公庁と会社が閉ざされたままだった。
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