1950年 - 1956年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 03:41 UTC 版)
「シルヴィア・プラス」の記事における「1950年 - 1956年」の解説
1950年、プラスはスミス大学に進学、成績は優秀だった。「世界は熟したスイカみたいに私の足元にパックリ開いている」と母に手紙を書いた。校内新聞の The Smith Review を編集し、大学3年目の夏休みには皆が憧れる雑誌『マドモアゼル(英語版)』のゲスト編集者の地位を射止めた。そのため、その年の夏休みは丸ひと月、ニューヨークに滞在した。ところが『マドモワゼル』でのインターンは当初思い描いていたものとは異なる体験であった。そしてこれが悪循環の始まりだった。プラスは編集者がウェールズの詩人ディラン・トマスとの打合せの場に同席させてくれなかったことに激怒した。ディラン・トマスはプラスのお気に入りの詩人であった。ボーイフレンドの一人には「死んでもいいくらい好き」と言ったこともある。彼女はトマスに会えることを期待して、丸二日間、チェルシーホテルとホワイト・ホース・タヴァーン(英語版)の前をうろうろした。しかし、トマスは既に帰った後だった。数週間後、プラスは自分が自殺をする勇気があるかどうか確かめるために、自分の両足をナイフでざっくり切った。この大学3年の夏にはプラスの身に多くの出来事が起き、後に彼女はこのときに経験したエピソードを小説『ベル・ジャー』の中で用いている。この夏にはハーヴァード大学の作家養成講座にも応募したが、入学を許可されなかった。また、うつ病治療のため電気けいれん療法を受けたが、その後の1953年の8月下旬、実家の床下で母の睡眠薬を過剰摂取し、自殺を試みた。この事件はカルテに初めて記録が残る自殺未遂となった。 プラスは3日間誰にも見つからずに床下で眠り続け、生き延びた。プラスはのちにこの事件のことを次のように回想した。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0} blissfully succumbed to the whirling blackness that I honestly believed was eternal oblivion. —Sylvia Plath (私は)この上なく幸せなことに、旋回する暗闇に負けたのだ。あの暗闇はきっと永遠の忘却だったのだ。 —Sylvia Plath その後の6ヶ月間、彼女は精神科に入院し、ルース・ボイシャー医師(Dr. Ruth Beuscher)の下でさらに何回か、電気けいれん療法やインスリン・ショック療法を受けた。マクレイン病院(英語版)の入院費用とスミス大学へ通うための学費は、作家のオリーヴ・ヒギンズ・プルーティ(英語版)が支払ってくれた。プルーティはかつて自分自身の精神崩壊の危機からうまく立ち直った経験があり、偶然知り合った「将来有望な作家の卵」に経済援助したのであった。プラスは良好な回復を見せ、大学に復帰した。1955年1月に卒業論文を提出、6月に非常に優秀な成績でスミス大学を卒業した。卒業論文の題名は「魔法の鏡:ドストエフスキーの2つの小説における二重人格の登場人物の研究」であった。 プラスはイングランドのケンブリッジ大学が運営する3つの女子校のうちの一つ、ニューナム校(英語版)で研究するための奨学金をフルブライト・プログラムから得た。ニューナム校では活発に詩作を続け、学内報『ヴァーシティ(英語版)』に継続的に作品を発表した。ニューナム校における指導教官はドロシーア・クルック(英語版)であり、プラスはクルックのことを尊敬していた。プラスはニューナム校1年目の冬休みと春休みにヨーロッパを旅行して回った。
※この「1950年 - 1956年」の解説は、「シルヴィア・プラス」の解説の一部です。
「1950年 - 1956年」を含む「シルヴィア・プラス」の記事については、「シルヴィア・プラス」の概要を参照ください。
- 1950年 - 1956年のページへのリンク