1944年10月 クールラントでの奮戦
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「ハンス=イェスタ・ペーアソン」の記事における「1944年10月 クールラントでの奮戦」の解説
1944年9月、「ノルトラント」師団が所属するドイツ北方軍集団はエストニアからラトビア半島北部のクールラントへ撤退したが、10月には北方軍集団全体がクールラント半島においてソビエト赤軍に包囲された(クールラント・ポケット)。リーバウの港は包囲されたドイツ軍部隊にとって非常に重要な拠点であり、フェリックス・シュタイナーSS大将(SS-Ogruf. Felix Steiner)の第ⅢSS装甲軍団はプレークルン(Preekuln、ラトビア語表記Priekule)周辺の前線を維持していた。 第二次クールラント会戦の最中である1944年10月中旬、プレークルンでペーアソンは「ノルトラント」師団長ヨアヒム・ツィーグラーSS少将(SS-Brigf. Joachim Ziegler)から直々に命令を受けた。当時のペーアソンの伝令を務めていた民族ドイツ人(ルーマニア出身のドイツ系ルーマニア人)フランツ・ベレズニャークSS伍長(SS-Uscha. Franz Bereznyak)は、1978年に記した手紙で次のように述べている。 「 プレークルン地区で過ごした日々は第11SS装甲偵察大隊第3中隊にとって暗黒の日々であった。この場所はトレクニ(Trekni)と呼ばれていた。ペーアソンSS中尉は師団長ツィーグラーSS少将から直々に命令を受けた。「ここはミタウおよびリーバウ防衛の重要拠点である。攻撃・確保し、そして最後の一兵に至ろうとも必ず死守せよ」 攻撃後、我々がロシア軍の丘と掩蔽壕を制圧した時、ペーアソン中隊にはわずかの兵しか残っていなかった。恐ろしい殺し合いが繰り広げられていた。ロシア軍はこの地の重要性を承知しており、丘を奪回するために持てる力を全て投入した。我々は4日間に渡って敵の攻撃を全て撃退したが、5日目には後退を余儀なくされた。ペーアソンの指揮所は掩蔽壕線から100メートル後方にあった。私は我々が逃げ帰る姿をペーアソンが目撃した瞬間のことを決して忘れない。 「腰抜けども、配置に戻れ!」 そう叫んだ彼は我々12名を率いて反撃を開始した。ロシア兵は勝利を確信していたため、攻撃を予期していなかった。我々は100名以上を捕虜にした。戦闘後、我々は酒でいっぱいのペーアソンの水筒を飲み干した。その後すぐペーアソンはザールバッハSS少佐に無線で報告した。 「陣地を奪回。もしシュナップスのケースが直ちにここに運ばれないのであれば、我々は陣地を放棄します」 ザールバッハはシュナップスのケースと共に現れた。彼はペーアソンの言葉を覚えていたのであった。 」 1944年10月中旬、第11SS装甲偵察大隊第3中隊の将兵はラトビア・クールラントのトレクニ近辺で繰り広げられた戦闘で全滅に近い損害を被りつつも、戦区内で7輌のT-34戦車をパンツァーファウストで撃破し、中隊長のペーアソンはわずか12名の兵を率いた反撃で赤軍兵100名以上を捕虜にするという戦果を挙げた。この功績を讃えられ、ペーアソンは1944年12月25日付でドイツ陸軍名鑑章(Ehrenblattspange des deutschen Heeres)を受章した。 EHRENBLATTDES DEUTSCHEN HEERES Auf dem Schlachtfeld haben sich durch besondere Tapferkeit hervorgetan ...(受章者21名の官姓名) SS-Obersturmführer Hans-Gösta Pehrsson.Chef der 3. Kompanie SS-Panzer-Aufklärungs-Abteilung 11 ...(受章者28名の官姓名) 25. Dezember 1944Der Führer(サイン) 1944年12月31日夜、マイナス30度の凍てつく気温の中、ラトビア・クールラントのリーバウ近郊のBunkasという村でペーアソンは1945年を迎えた。
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