1912-1942
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「アーロン・S・メリル」の記事における「1912-1942」の解説
“チップ”ことアーロン・スタントン・メリルは1890年3月26日、ミシシッピ州アダムズ郡ブランドンホールで、父ダンバー・サージェット・メリルと母シャーロット・ブランドン・スタントンの子として生まれる。曽祖父にはミシシッピ州知事を二度務めたジェラード・ブランドン(英語版)がいる。メリルの愛称である「チップ」はジェラード・ブランドンから代々受け継がれたもので1811年のティペカヌーの戦いに由来し、南軍の兵士だった父も「チップ」の愛称を持っていた。 メリルは1912年に海軍兵学校(アナポリス)を卒業。卒業年次から「アナポリス1912年組」と呼称されたこの世代からは、他に潜水艦部隊を率いたチャールズ・A・ロックウッド、海軍作戦部長になったルイス・デンフェルド、太平洋艦隊参謀長を務めた「ソック」チャールズ・マクモリス、空母任務群を率いたアルフレッド・E・モントゴメリーやデウィット・C・ラムゼー(英語版)らがいる。卒業後、メリルは地中海方面に派遣され、第一次世界大戦が終結する最後の月にはプリマスを拠点にしていた駆逐艦「エールウィン」乗り組みとなり、大戦終結後の1919年にはイングランドのハーウィッチ(英語版)で、哨戒艇「ハーヴァード(英語版)」 (USS Harvard, SP-209) の艇長を務めた。 1919年後半に少佐に昇進したメリルは地中海に戻り、マーク・ブリストル(英語版)少将(アナポリス1887年組)の幕僚となって、トルコや東部地中海方面のアメリカ海軍部隊で高等弁務官として勤務する。1922年1月28日には、ニューヨークでルイーズ・ゴーティエ・ウィズビーと結婚。1925年、メリルは砲艦「エルカノ(英語版)」 (USS Elcano, PG-38) 艦長として、いわゆる「長江パトロール(英語版)」に従事した。ワシントンD.C.の海軍情報部に2年勤務した後、1929年6月からは駆逐艦「ウィリアムソン(英語版)」 (USS Williamson, DD-244) 艦長となる。3年後に中佐に昇進したメリルは再び海軍情報部に勤務し、次いでヘンリー・L・ルーズベルト海軍次官の下で補佐役を務めた。1935年6月、メリルは重巡洋艦「ペンサコーラ」艦長となり、任期を終えたベルギーの駐米大使をアントウェルペンまで送り、その功によりベルギー政府からベルギー王冠勲章(英語版)を授与された。 1936年6月、メリルは第8駆逐隊司令となり、駆逐艦「バリー」を旗艦とする。翌1937年5月からの1年間は在サンティアゴのアメリカ大使館付海軍武官を務め、チリ海軍の艦艇に同乗して広範囲に活動し、チリ海軍艦艇初のホーン岬巡航に立ち会った功績によってチリ・メリット勲章(英語版)を授与された。1938年から1939年にかけては海軍大学校を受講して大佐に昇進し、1939年から1940年には太平洋艦隊駆逐部隊司令として駆逐艦「サマーズ(英語版)」 (USS Somers, DD-381) を旗艦とした。その後はチュレーン大学において海軍学と戦術の教授を務め、1942年4月には新鋭戦艦「インディアナ」 の初代艦長に就任。「インディアナ」艦長としては、ガダルカナルの戦いの後半に参加した。
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