1901年 - 1928年
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「カナダ太平洋鉄道」の記事における「1901年 - 1928年」の解説
まず鉱山会社テックを設立、支配。20世紀最初の10年間、カナダ太平洋鉄道はさらに路線の建設を続けた。1908年にカナダ太平洋鉄道はトロントとサドバリーを結ぶ路線を開通させた。それ以前は、オンタリオ州南部から西へ行く列車は、オンタリオ州東部を通る遠回りな経路を通っていた。カナダ太平洋鉄道は1909年には、2つの技術上の大きな偉業を達成した。もっとも重要であったと言えるのが、カナダ太平洋鉄道の本線にとって大きなボトルネックとなっていたビッグ・ヒルをスパイラルトンネルで置き換えたことで、これにより勾配は45パーミルから22パーミルに下がった。このスパイラルトンネルは8月に開通した。1908年4月には、レッドディア川を渡る古いカルガリー-エドモントン鉄道橋の代替工事に着手し、新しい標準的で鋼製の橋が1909年3月に完成した。 1909年11月3日には、アルバータ州レスブリッジでオールドマン川の峡谷を横断するレスブリッジ高架橋(英語版)が開通した。全長1,624メートル(5,328フィート)、最大高さ96メートル(315フィート)で、カナダでも最長の鉄道橋となった。1916年には、雪崩に弱く1910年には62人の死者を出す事故(英語版)があったロジャーズ峠を通る線路を、マクドナルド山(英語版)の下を抜ける全長8キロメートルのコンノートトンネル(英語版)で置き換えた。これは当時西半球でもっとも長い鉄道トンネルであった[要出典]。 1910年1月21日に、サドバリー近郊のオンタリオ州ナイルンのスパニッシュ川(英語版)に架かる橋で、旅客列車が脱線する事故(英語版)があり、少なくとも43人が死亡した。 カナダ太平洋鉄道は、1912年にはいくつかの小さな鉄道会社を長期リース契約により傘下に収めた。1912年1月3日にノバスコシア州西部で運行するドミニオン・アトランティック鉄道(英語版)を取得した。これにより大西洋に面した重要な港であるハリファックスへの連絡ができるようになった。ドミニオン・アトランティック鉄道は、他のカナダ太平洋鉄道の路線網からは孤立しており、連絡にはカナディアン・ナショナル鉄道を利用することになった。またドミニオン・アトランティック鉄道は、ノバスコシア州ディグビー(英語版)からカナダ太平洋鉄道のあるニューブランズウィック州セントジョンとの間で、ファンディ湾を渡るフェリーを運航しており、旅客と貨物を運んでいたが、貨車の航送は行っていなかった。ドミニオン・アトランティック鉄道の船は、他にもヤーマス(英語版)、ボストン、ニューヨークとの間でも旅客や貨物の輸送を行っていた。1912年7月1日には、カナダ太平洋鉄道とは鉄道連絡船を通じて接続していたバンクーバー島の鉄道、イスクワイモルト・アンド・ナナイモ鉄道(英語版)を買収した。さらにカナダ太平洋鉄道は、1912年12月14日にケベック・セントラル鉄道(英語版)を買収した。 19世紀末には、カナダ太平洋鉄道は沿線の観光開発の拠点とすべく大規模なホテル建設計画を実行し、グレーシャー国立公園にグレーシャーハウス、ブリティッシュコロンビア州フィールド(英語版)にマウント・スティーブン・ハウス(英語版)、ケベック・シティーにシャトー・フロンテナック、そしてバンフ国立公園にバンフ・スプリングス・ホテルを建設した。 この頃から、カナダ太平洋鉄道は3つの大陸横断鉄道と競争するようになったが、どれも損失を計上するばかりであった。1919年にはこれらの路線は合併され、旧インターコロニアル鉄道(英語版)の路線網も合わせて、政府が所有するカナディアン・ナショナル鉄道となった。また、カナダ太平洋鉄道所有の汽船エンプレス・オブ・アイルランドがノルウェーの石炭船ストールスタッドと衝突し、会社の歴史上最大の死者を出すことになった。1914年5月29日に、カナダ太平洋汽船会社(英語版)が運航していたエンプレス・オブ・アイルランドはセントローレンス川で沈没し、1,024人が死亡しこのうち840人が乗客であった。
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