1853年 南部三閉伊一揆 仙台強訴とは? わかりやすく解説

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1853年 南部三閉伊一揆 仙台強訴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 22:45 UTC 版)

三閉伊一揆」の記事における「1853年 南部三閉伊一揆 仙台強訴」の解説

実権握った利済は遠野強訴沈静すると公約破棄した横沢兵庫加えて側用人石原汀参政会計総括兼務させ、田鎖左膳番頭登用し近習頭に昇進させて側近政治強化悪政が続くことになる。また参勤交代費が足りず上京延期申し出るありさまであった負債打開策として新税・増税御用金をさらに民衆課した嘉永 6年1853年)、3月数百人の農民野田代官所襲撃した指導者忠兵衛急死したため頓挫したが、再び陣容ととのえて発頭人筆頭である多助のもとに6月3日野田通田野畑村から一揆起こす。白赤だすきそして筵(むしろ)に「小○」(困るの意味と書きのぼり旗として、隊・棒隊と隊列組んで浜通り南下しながら資産家軍資金食料を出させ、出さない家財家屋打ち壊して歩いたという。田老宮古山田の各押し出すにつれ大群となって6月4日大槌通に押し寄せ、翌 5日釜石集合した一揆人数は約1万6千余人にも達した間道進み篠倉峠を乗り越え半数仙台気仙郡唐丹村への越訴成功し仙台藩に、政治的要求3ヵ条と具体要求49ヵ条を提出した一揆要求は「三閉伊通の百姓仙台領民として受け入れ、三閉伊通を幕府直轄地か、もしできなければ仙台領にしてほしい。役人が多いから減らしてほしい。金上侍を元に戻してほしい。御用金その他臨時税が多すぎる。租税請負廃してほしい。」などであった。なお、この要求には南部利義復位要求された。 南部藩百姓引き渡し仙台藩要求するが、1837年のことがあり、引き渡しをしなかった。ところが黒船来航により仙台藩にも警備の命がおり、一揆どころではなくなり、代表45人を残して帰国勧めたものの結局すべての百姓仙台藩あずかり百姓として保護した。多助は、長引く交渉で代表45人が望郷の念にかられると「我々は民衆のために死ぬ覚悟だ。仙台なり江戸なりで処罰を受けるのならそれも本望。帰国し処罰されても万人のためにならないし、これこそ無駄死にだ。皆で覚悟決めようではないかと言って結束強めた。 これに対して南部藩は利義の復帰以外の一揆要求すべてを受け入れ、また一揆指導者処分一切しなかった。また、家老南部土佐蟄居参政会計総括石原汀番頭田鎖は身帯家屋敷取上げの上蟄居処分初めとして、勘定奉行大目付以下2百数十名が罷免して利済派は一掃される翌年2月隠居として藩政後見をしてきた利済は幕府命令江戸呼び出され江戸城下謹慎となったその後一揆指導者三浦命助が逃走中にもかかわらず京都二条家家臣という触込み領内現れところを捕えられ、盛岡入牢され獄死した。

※この「1853年 南部三閉伊一揆 仙台強訴」の解説は、「三閉伊一揆」の解説の一部です。
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