1853年 南部三閉伊一揆 仙台強訴
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「三閉伊一揆」の記事における「1853年 南部三閉伊一揆 仙台強訴」の解説
実権を握った利済は遠野強訴が沈静すると公約を破棄した。横沢兵庫に加えて側用人の石原汀を参政兼会計総括を兼務させ、田鎖左膳を番頭に登用し、近習頭に昇進させて側近政治を強化、悪政が続くことになる。また参勤交代費が足りず、上京延期を申し出るありさまであった。負債の打開策として新税・増税・御用金をさらに民衆に課した。 嘉永 6年(1853年)、3月に数百人の農民が野田代官所を襲撃したが指導者・忠兵衛が急死したため頓挫したが、再び陣容をととのえて発頭人筆頭である多助のもとに6月3日野田通の田野畑村から一揆を起こす。白赤だすきそして筵(むしろ)に「小○」(困るの意味)と書き、のぼり旗として、槍隊・棒隊と隊列を組んで、浜通りを南下しながら資産家に軍資金や食料を出させ、出さないと家財家屋 を打ち壊して歩いたという。田老・宮古・山田の各村を押し出すにつれ大群衆となって、6月4日、大槌通に押し寄せ、翌 5日に釜石に集合した一揆の人数は約1万6千余人にも達した。間道を進み、篠倉峠を乗り越え約半数が仙台領気仙郡唐丹村への越訴に成功し、仙台藩に、政治的要求3ヵ条と具体的要求49ヵ条を提出した。 一揆の要求は「三閉伊通の百姓を仙台領民として受け入れ、三閉伊通を幕府直轄地か、もしできなければ仙台領にしてほしい。役人が多いから減らしてほしい。金上侍を元に戻してほしい。御用金その他臨時税が多すぎる。租税請負を廃してほしい。」などであった。なお、この要求には南部利義の復位も要求された。 南部藩は百姓の引き渡しを仙台藩に要求するが、1837年のことがあり、引き渡しをしなかった。ところが黒船来航により仙台藩にも警備の命がおり、一揆どころではなくなり、代表45人を残して、帰国を勧めたものの結局、すべての百姓を仙台藩のあずかり百姓として保護した。多助は、長引く交渉で代表45人が望郷の念にかられると「我々は民衆のために死ぬ覚悟だ。仙台なり江戸なりで処罰を受けるのならそれも本望。帰国し処罰されても万人のためにならないし、これこそ無駄死にだ。皆で覚悟を決めようではないか」と言って結束を強めた。 これに対して南部藩は利義の復帰以外の一揆の要求すべてを受け入れ、また一揆指導者の処分を一切しなかった。また、家老の南部土佐は蟄居、参政兼会計総括の石原汀や番頭の田鎖は身帯家屋敷等取上げの上蟄居の処分を初めとして、勘定奉行・大目付以下2百数十名が罷免して利済派は一掃される。翌年2月、隠居として藩政後見をしてきた利済は幕府の命令で江戸に呼び出され、江戸城下に謹慎となった。 その後、一揆の指導者三浦命助が逃走中にもかかわらず、京都二条家の家臣という触れ込みで領内の現れたところを捕えられ、盛岡に入牢され獄死した。
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