石原汀とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 石原汀の意味・解説 

石原汀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/06 15:37 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

石原 汀(いしはら みぎわ、文化14年(1826年) - 明治38年(1905年)3月20日)は、江戸時代後期の盛岡藩士

藩主南部利済の側近として辣腕を振るうも、藩内感情を無視したその政策と増税方針は農漁民の反感を買い、田鎖茂左衛門、川島杢左衛門と共に「君側の三奸」と呼ばれた。ことに石原はその筆頭格として領民の怨嗟の的となり、最終的に嘉永三閉伊一揆を誘発した。

経歴

母は盛岡藩12代藩主南部利済の母清鏡院(俗に油御前)、父は先夫の塗師善助で、利済の異父兄である。

清鏡院の縁で殿中にて養育され、天保3年(1832年)に御小姓、同6年(1835年)に小頭兼御目付より御側用人となり、300石を与えられ藩政に参与。嘉永5年(1852年)11月、家格引き上げにより高家となり、田鎖茂左衛門、川島杢左衛門とともに参政兼会計総轄を勤める。

同6年(1853年)5月、再び三閉伊通一揆が起こり、伊達領に越境して提訴するにおよび、幕府は看過すべからずと利済を参府の上謹慎を命じ、参政石原汀、田鎖茂左衛門、川島杢左衛門らも、家禄屋敷を没収のうえ召しかかえを放たれ、石鳥谷の新堀に配流された。

参考文献

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「石原汀」の関連用語

石原汀のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



石原汀のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの石原汀 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS