1849年から第一次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 03:11 UTC 版)
「バート・アーロルゼン」の記事における「1849年から第一次世界大戦まで」の解説
ヴァルデック=ピルモント侯ゲオルク・ヴィクトルの摂政となったエンマの下、1849年に、当時のドイツでは最も近代的な国家基本法が制定された。これにより4つの行政郡が設けられた。アーロルゼンは、侯国全体の首都であると同時に、ツヴィステ郡の行政府所在地ともなった。いわゆる「テプファーハウス」は侯家御料地の資金で購入され、ヴァルデック侯国で初めての病院とされた。この施設は1850年に事業を開始した。 侯女エンマ・ツー・ヴァルデック・ウント・ピルモントは1858年にアーロルゼンで生まれた。彼女は1879年にオランダ王妃となり、1890年には摂政となった。彼女の人気は、オランダ人観光客がバート・アーロルゼンに多く訪れる誘因となっている。 アウグスト・ビーアは1861年にヘルゼンで生まれた。彼はドイツで一流の医師であり、後にベルリンで教授を務めた人物である。彼は脊椎麻酔の分野や、ホメオパシー療法の導入、ヘルメットの発明、体育学校の復興などの業績で知られている。 侯妃へレーネは、1864年、ヘルゼンに12人の女児のための孤児院を設立した。この孤児院は後の「ゾフィーエンハイム」の由来となった。ヴァルデック地方の若いプロテスタントの女性が教育者として充てられた。さらに周辺地域の年老いた病気の介護が必要な男性もこの施設に保護された。ベーテルの牧師フリードリヒ・フォン・ボーデルシュヴィングはこの施設を支援した。彼は、ゾフィーエンハイムの拡充と、その看護師達のための日用品を供給するための活動を行う社会奉仕団マチルデ・ケッターを設立した。1887年にこの施設は「Waldecksches Diakonissenhaus Sophienheim(ヴァルデックの社会奉仕施設ゾフィーエンハイム)」と改名した。その本館は、ヘレーネン通りのパウリーネン病院の隣に設けられた。 ヴァルデック侯は、1868年のアクツェッション条約によって、プロイセンに対する高権の一部を喪失した。 1871年、現在の市街中心部からも遠くないところに最初のヴァルデック兵舎が完成したことで、アーロルゼンの軍事都市としての長い歴史が始まった。ヴァルデック大隊は、9つの宿舎に駐屯し、それまでの周辺町村の宿舎は廃止された。この大隊は1681年から組織されていた。 この街の有名な住民に、医師で教授のルードルフ・クラップ(1873年 - 1949年)がいた。彼は整形外科医として、その医療技術で市の発展に寄与した。 この街の近代は、1890年5月1日に皇帝ヴィルヘルム2世が訪問した際、隣町のヘルゼンに建設された駅がそのきっかけとなった。ヴァールブルクを起点とするこの鉄道路線は1893年までにコルバッハまで延長された。1899年に開催された皇帝の祖父にあたるヴィルヘルム1世の記念碑の完成式典の機会に皇帝は再びアーロルゼンを訪れた。 バチルディスハイムは、侯妃バチルディスにちなんで名付けられたこの身体に障害を持つ子供のための養育施設であり、1912年に完成した。
※この「1849年から第一次世界大戦まで」の解説は、「バート・アーロルゼン」の解説の一部です。
「1849年から第一次世界大戦まで」を含む「バート・アーロルゼン」の記事については、「バート・アーロルゼン」の概要を参照ください。
- 1849年から第一次世界大戦までのページへのリンク