麻原彰晃研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 07:59 UTC 版)
宗教や権威に染まることを拒絶し、インドの旅では自身の肉眼で確認できる事実や存在のひとつひとつのみを信じ見ようとした。 オウム真理教事件後、麻原彰晃の熊本県八代の実家を訪ね、マスコミを一切遠ざけていた麻原の兄との接触を試みる。 全盲の長兄は全盛期には1日に300人の患者を診たといわれるほどの手かざし治療の秘儀を持つ人物であり、藤原はそれを受け継いだ麻原がイニシエーションを施した相手から受ける負のエネルギーをどう浄化しているのかと、目の疾患(身体障害)がオウムの本質にどのような影響を及ぼしたかを長兄に会い知る目的であった。 麻原の世間に対する遠離と怨嗟の感情を決定付けたのは、巷間で言われるような選挙での惨敗よりもむしろ、郷里で住民票受理を拒否され、村八分に会ったことではないかと推測し、九州の辺境をさまよう。 「オウム神仙の会」発足時には、教祖になってほしいとまで言わせた長兄の経営する松本鍼灸院を客を装い訪ねたものの、もぬけの殻であった。 麻原の兄には会えなかったが、釣りをする目的で赴いた不知火海で偶然に麻原の目の障害は、チッソの水俣病が原因ではないかいう、新たな疑問を抱く。さらに、この国から受けたとも言うべき宿命的な身体障害が世間へ対する憎悪となり、事件へ結びついたのではないかという仮説を立てる。 この考えにとりつかれた藤原は東京に戻ると、多くの資料を読み漁り、水俣病に長くたずさわった弁護士後藤孝典の著書を目にし、編集者の仲立ちで後藤に会い、意見を聞く。後藤は、麻原の目の疾患が国家や天皇への憎悪に結びつくことはありえないと一蹴し、不快感を示すとともに、後にこれ以上、麻原と水俣病の関係について書くことは許さないとの抗議を受ける。 藤原は後に偶然に大阪に潜んでいた麻原の長兄に会う機会を持つ。長兄のアパートに一泊し、麻原が幼少期に不知火海で水銀に汚染されたと思われる魚介類を多く食べていたことや、水俣病患者として役所に申請したが、却下された事実を聞き出す。 八代では水俣病の申請を出すと「アカ」との風評が広がり、それ以上は戦わなかったこと、また、早川紀代秀が教団に入ってきてから麻原の態度が急激に変わったことなどを聞き出す。最後に、自分の目の黒いうちは話すな、と釘を打たれる。 藤原は、著書の中でこの誇大妄想は、すべて現実の重さを直視し、消化できない場合の自己保存のための現実逃避であると言い切っている。
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