鷹ケ峰芸術村とは? わかりやすく解説

鷹ケ峰芸術村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 03:43 UTC 版)

唐紙」の記事における「鷹ケ峰芸術村」の解説

からかみ作りは、もともと都であった京で始まったもので、京都発祥地であり本場であり、その技術洗練されていた。近世初期の、本阿弥光悦の鷹ケ峰芸術村では、「嵯峨本」などの料紙としてのから紙を制作し、京から紙の技術をさらに洗練させ、京の唐紙師(かみし)がその伝統を継承していった。 本阿弥光悦(1558ー1637)は多賀宗春の子で、刀剣鑑別研磨を業とする本阿弥光心の養子となった絵画蒔絵陶芸にも独創的な才能発揮したが、書道でも寛永の三筆一人でもあった。本阿弥光悦晩年元和元年1615年)、徳川家康から洛北ケ峰に広大な敷地与えられ各種工芸家集め本阿弥光悦流の芸術精神統一した芸術村を営んだ。 本阿弥光悦芸術重要なテーマ王朝文化復興であり、その一つとして王朝時代詠草料紙復活と「からかみ」を作り書道料紙とするとともに嵯峨本料紙とすることであった嵯峨本は、別名角倉本光悦本ともいい、京の三長者数えられる嵯峨素封家角倉素庵開版し、多く本阿弥光悦書体になる文字摺りの国文学出版であった慶長13年1608年開版嵯峨本伊勢物語』は、挿し絵が版刻され最初のものであった嵯峨本影響受けて仮名草紙浄瑠璃本評判記なども版刻の挿し絵採用するようになった仮名草紙普及で、のちに西鶴文学生まれ挿し絵文字組み合わせた印刷本が、庶民要望応えて量産されるようになった嵯峨本は、豪華さ典雅さ特徴とし、装幀料紙挿し絵デザインきわめて優れたものであった料紙王朝文化伝統新し装飾性加えた図案俵屋宗達描いている。俵屋宗達慶長から寛永にかけて活躍した絵師で、光悦芸術村での独特の表現技術凝らした画風がのちに宮廷認められ狩野派など一流画壇絵師たちと並んで仕事請け負うようになり、町の絵師出身としては異例の「法橋」に叙任され今日に残るふすま絵屏風絵名作描いている。 俵屋宗達は、のちの尾形光琳やその流れを汲む琳派に強い影響与えている。この俵屋宗達図案版木彫り印刷してから紙料紙にする仕事担当したのが紙師宗二である。紙師宗二は、光悦芸術村活動参加した工芸家で、「紙師」の文字は、紙を漉く工人意味するではなく唐紙師の意で称されている。 光悦発想宗達意匠に宗二の加工技術調和して美しいから紙の料紙生み出された。芸術村作られた「から紙」は、ほとんどが嵯峨本出版用の料紙詠草料紙であったが、近世の京唐紙師の一部にその技術伝承されて、京からかみ基礎築いたとも言える京からかみの紋様のなかに光悦や、宗達につながる琳派光琳光琳菊光琳大波などのデザインがある。

※この「鷹ケ峰芸術村」の解説は、「唐紙」の解説の一部です。
「鷹ケ峰芸術村」を含む「唐紙」の記事については、「唐紙」の概要を参照ください。

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