鷹ケ峰芸術村
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「からかみ」作りは、もともと都であった京で始まったもので、京都が発祥地であり本場であり、その技術も洗練されていた。近世初期の、本阿弥光悦の鷹ケ峰芸術村では、「嵯峨本」などの料紙としてのから紙を制作し、京から紙の技術をさらに洗練させ、京の唐紙師(かみし)がその伝統を継承していった。 本阿弥光悦(1558ー1637)は多賀宗春の子で、刀剣の鑑別、研磨を業とする本阿弥光心の養子となった。絵画・蒔絵・陶芸にも独創的な才能を発揮したが、書道でも寛永の三筆の一人でもあった。本阿弥光悦の晩年の元和元年(1615年)、徳川家康から洛北の鷹ケ峰に広大な敷地を与えられ、各種の工芸家を集め本阿弥光悦流の芸術精神で統一した芸術村を営んだ。 本阿弥光悦の芸術の重要なテーマは王朝文化の復興であり、その一つとして王朝時代の詠草料紙の復活と「からかみ」を作り、書道の料紙とするとともに、嵯峨本の料紙とすることであった。 嵯峨本は、別名角倉本、光悦本ともいい、京の三長者に数えられる嵯峨の素封家角倉素庵が開版し、多くは本阿弥光悦の書体になる文字摺りの国文学の出版であった。慶長13年(1608年)開版の嵯峨本『伊勢物語』は、挿し絵が版刻された最初のものであった。嵯峨本の影響を受けて、仮名草紙、浄瑠璃本、評判記なども版刻の挿し絵を採用するようになった。仮名草紙の普及で、のちに西鶴文学が生まれ、挿し絵と文字を組み合わせた印刷本が、庶民の要望に応えて量産されるようになった。 嵯峨本は、豪華さと典雅さを特徴とし、装幀・料紙・挿し絵のデザインのきわめて優れたものであった。料紙は王朝文化の伝統に新しい装飾性を加えた図案を俵屋宗達が描いている。俵屋宗達は慶長から寛永にかけて活躍した絵師で、光悦の芸術村での独特の表現と技術を凝らした画風がのちに宮廷に認められ、狩野派など一流画壇の絵師たちと並んで仕事を請け負うようになり、町の絵師の出身としては異例の「法橋」に叙任され、今日に残るふすま絵や屏風絵の名作を描いている。 俵屋宗達は、のちの尾形光琳やその流れを汲む琳派に強い影響を与えている。この俵屋宗達の図案を版木に彫り、印刷してから紙料紙にする仕事を担当したのが紙師宗二である。紙師宗二は、光悦の芸術村活動に参加した工芸家で、「紙師」の文字は、紙を漉く工人を意味するのではなく、唐紙師の意で称されている。 光悦の発想と宗達の意匠に宗二の加工技術が調和して、美しいから紙の料紙が生み出された。芸術村で作られた「から紙」は、ほとんどが嵯峨本の出版用の料紙や詠草料紙であったが、近世の京唐紙師の一部にその技術が伝承されて、京からかみの基礎を築いたとも言える。京からかみの紋様のなかに光悦桐や、宗達につながる琳派の光琳松、光琳菊、光琳大波などのデザインがある。
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