高沢第一・第二発電所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:19 UTC 版)
位置 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度50分46.4秒 東経138度8分59.6秒 / 北緯36.846222度 東経138.149889度 / 36.846222; 138.149889 (高沢発電所) 関川水系で中心となる発電所は高沢第一発電所(出力4,050 kW)および高沢第二発電所(出力10,800 kW)である。この2つの発電所は建屋が接続しており外観上は1つの発電所であるが、別個の発電設備を有し、建設時期も異なる。所在地は長野県上水内郡信濃尻村大字野尻(現・信濃町野尻)字高沢。 先に建設されたのは南側の建屋を使用する高沢第一発電所である。信濃川水系の米子発電所に続く信濃電気2番目の発電所であり、1905年(明治38年)9月に着工され、翌1906年(明治39年)7月に竣工、同年8月10日より運転が開始された。高沢第二発電所の完成までは単に「高沢発電所」と称する。最初の発電機数は300 kW機2台。以後1911年(明治44年)に300 kW発電機1台、1912年(明治45年)に1,050 kW発電機1台、1913年(大正2年)に2,000 kW発電機1台と増設が重ねられた。水車(ペルトン水車)は順に米国ペルトン製(2台)・芝浦製作所製・英国ボービング製・フォイト製と製造所が分かれる一方、発電機は5台とも芝浦製作所製で統一されている。 1922年(大正11年)春、高沢第一発電所は火災被害に遭った。その復旧工事はただちに着手され、9月までに2000 kW発電機の復旧が完了、12月には鉄筋コンクリート構造の新建屋が竣工し、翌1923年(大正12年)1月には1,050 kW発電機の復旧工事が終了する。さらに300 kW発電機3台を1,000 kW発電機1台へと改造する工事が同年4月に完了し、高沢第一発電所は焼失前より100 kW増となる出力4,050 kWの発電所として復旧された。1,000 kW機は水車が電業社製、発電機は他と同じ芝浦製である。 高沢第二発電所については第一発電所復旧後の1927年(昭和2年)7月23日より運転を開始した。高沢第一発電所の度重なる増設後も関川の水量に余裕があるため、その再開発として建設された。関川にある第一発電所取水口から上流約4キロメートルさかのぼった場所に別個の取水口を設け、別個の導水路によって第一発電所よりも大きい落差を得て発電する。水車はペルトン水車で、最初の3台がフォイト製、完成翌年に1台追加された予備機が電業社製。発電機は4,000キロボルトアンペア (kVA) 機4台の設置で、いずれも芝浦製。社内の標準周波数は60ヘルツであるが、高沢第二発電所の発電機については周辺に50ヘルツ地域が混在するため50ヘルツ発電にも対応する仕様とされた。発電所出力は当初9,100 kWで、翌1928年(昭和13年)11月の増加許可により10,800 kWとなっている。 高沢発電所を起点とする送電線は、柏原変電所(上水内郡柏原村)へ至る路線と鳥居川第一発電所へ至る路線(2路線ともその先、長野市内の吉田変電所へ繋がる)、新潟県側へ抜けて直江津変電所へと至る路線の3路線が存在した。このうち直江津変電所に繋がる「信越送電線」は亘長41.3キロメートル・最大電圧77キロボルトの送電線で、社内では唯一の電圧40キロボルト以上の送電線でもある。1927年10月に信越窒素肥料への送電用として建設された。
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