騎馬民族征服王朝説とは? わかりやすく解説

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騎馬民族征服王朝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 03:33 UTC 版)

江上波夫」の記事における「騎馬民族征服王朝説」の解説

江上一般歴史・考古学ファンの心をつかんだのは、ロマンあふれる騎馬民族征服王朝説だった。古事記、日本書紀等の古い時代資料日本人騎馬民族あるかのような記述見られないが、渡来人に関する記述数多くみられる。特にニニギノミコト天孫降臨に対して数多く学者たちから数多く検証なされてきた。日本古代国家起源東北アジア騎馬民族求めた壮大な説である騎馬民族征服王朝説は戦後間もない1948年東京お茶の水駅近く喫茶店江上岡正雄八幡一郎石田英一郎学究仲間3氏が集った座談会披露され、「日本民族文化源流日本国家の形成」という特集記事発表された。かかわり深かった研究誌民族学研究』の出版元経済的に困っているので売れ論文書いて助けよう、と座談会企画されたという。騎馬民族説学会大きな論争巻き起こし発表直後から柳田國男折口信夫といった民俗学者をはじめ、様々な分野研究者から批判受けた。この説については佐原真はじめ、岡内三眞、穴沢咊光、鈴木靖民安本美典など多く研究者からも批判寄せられた。しかし、江上学説不備指摘されると、その都度修正補強し続けた学界で疑問視する意見も強いが、発表後50年以上経っても、一般に流布し学説として生き続けている。学説発表されたのは天皇家起源神話求め皇国史観束縛から解き放たれ時期で、マスコミこぞって江上説を紹介した北方から騎馬民族南下し次々と農民族を支配下入れて新王朝建設するという話に、ロマン感じる人が多かった晩年には反騎馬民族説主唱する佐原真対論挑まれ2人激論した著作刊行された。この説は日本古代史上の仮説として学会でも激し論争となったが、定説には至らなかった。しかし議論自体は現在も残されままともいわれる。なお、騎馬民族征服王朝説の「征服王朝と言い出したのは江上ではなくヨーロッパ学者で、おそらくウィットフォーゲル最初だろうと江上自身語っている。 騎馬民族説は「昭和伝説となったが、江上学者として真価はむしろ、日本の考古学海外調査への道を開いたという点にある。

※この「騎馬民族征服王朝説」の解説は、「江上波夫」の解説の一部です。
「騎馬民族征服王朝説」を含む「江上波夫」の記事については、「江上波夫」の概要を参照ください。

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