食糧管理法以前
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1915年1月25日、「米価調節令」が公布された(勅令)。これにより米価低落防止のために大蔵大臣は必要に応じて米の買入れ、交換、売渡しをし得る。3月10日-5月10日、正米30万石を買上げるが効果は少ない。1918年4月25日、同令廃止公布(勅令)。政府による食糧流通への介入は1921年(大正10年)4月4日、原内閣時に公布施行された「米穀法」に始まる。1918年米騒動ないし第一次世界大戦後米価は不安定な状態にあり、急変動を抑えるために政府による米の買入・売渡・交換・加工・貯蔵について定めた。また米穀の輸入税増減や輸出入制限の設定も可能となり、特別会計として米穀需給調節特別会計が創設された。 1931年に改正がなされ3月31日公布、7月1日施行、売買に際し米価の最高価格及び最低価格を定め、米穀の輸出入を許可制とした。この法律は1933年(昭和8年)3月29日公布、11月1日施行の「米穀統制法」に発展し、以降政府は公定した最高価格・最低価格に基づき買入・売渡を無制限に行い、輸出入制限を常時実施するようになった。 1936年(昭和11年)には補完的法律として「米穀自治管理法」が5月28日公布、9月20日施行され、管理委員会が定めた一定数量の米の強制貯蓄を生産者側に課すことで過剰米の統制が行われた。その上で公定の最低価格を割る場合は産業組合が自治的に過剰米を統制する仕組み。当時の背景としては、軍拡により重工業が発展し全工業生産額の過半数を突破する一方で、食糧安定供給を図るべく農工間の格差解消を行う方針であった。つまり米の供給高と需要高を一致させることで高米価を維持するということだが、却って米穀業者の反感を買うこととなった。 これらの法整備により、結果的に米穀取引所の取引量が急減し、1939年(昭和14年)には「米穀配給統制法」(4月12日公布)により取引所は廃止され、代替として半官半民の日本米穀株式会社が7月25日設立された。米価低下の一要因である台湾米の移出は、日本米穀が管理を実施。同時に米の先物取引は戦時下で一時廃止され、集荷機構は一元化され、後の米穀供出制や米穀配給通帳制を実施する上で、政府の権限が強化された。また米穀の卸売商や小売商は、許可制及び組合服従化され、流通販売に至るまで統制が強化された。食糧管理制度の先駆となる「米穀管理制度」はここに始まった。1939年8月25日、第4条を発動し、最高販売価格1石38円を公定、8月26日実施した。
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