食糧管理制度の形骸化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:39 UTC 版)
「日本酒の歴史」の記事における「食糧管理制度の形骸化」の解説
三増酒であっても経済成長期で「造れば造るだけ売れた」時代であったので疑念や危機感を持つ酒蔵がまだ少なかった。良質な酒を生産しようと志しても、いまだ1942年(昭和17年)に制定された食糧管理法の下に、日本国民には米穀配給通帳が発行され、酒造米も配給制となっていたために、満足のゆく原料の調達が困難であった。しかも、配給量は日中戦争開始以前、まだ小作農が農業人口の大半を占めていた昭和11酒造年度(1936年(昭和11年) - 1937年(昭和12年))の米の生産高に基づいて算出されていたため、戦後の農地改革を経て農業も機械化され富裕になった1960年代の日本の実態に即していなかった。 原料である酒造米の配給高が蔵ごとに決められ、製成酒の生産高も戦前のそれに準じて規定されていた。それで「造れば造るほど売れる」「造りに手を抜いてもアルコール添加で最終調整すれば出荷できる」「よい酒を造っても消費者に見向きもされず、しょせん販売価格は同じになる」のであれば、生産者も企業努力をしなくなった結果、三増酒による量産主義となり、そうでない酒は市場から姿を消した。 算定基準である昭和11酒造年度には、まだ大メーカーと地方の零細蔵の生産量の格差は小さかったため、割り当てられる酒米の量の差も小さかった。ところが生産の主流が三増酒という「工業製品」になるとこの格差は広がり、投資のしやすい大メーカーが急速に成長し、製成高も急増した。一方、旧来然とした素朴な設備しか持たない零細蔵は、自分たちの販売能力を上回る酒造米を割り当てられていたため、零細蔵が製成した酒をタンクごと大メーカーが買い取るようになった。 これを売り手(零細蔵)から見て桶売り、買い手(大メーカー)から見て桶買いという。桶売り・桶買いの実像は「大手酒造企業の下請け」であり、経済学的には日本酒のOEMととらえられている。酒は、瓶に詰めて出荷された時点で「酒税の課税対象」になるので、その前段階、すなわち桶売り・桶買いの時点では、取引に関わる納税の義務が生じない。そのため未納税取引ともいう。これは両者にとって経営上、重要な節税のテクニックでもあった。大メーカーは、桶買いによって集めたあちこちの蔵からの酒をまぜあわせたり、自社醸造の酒の割り増しに使ったり、あるいはそのまま自社ブランドの瓶に詰めたりして販路に乗せた。 このような流通システムでは、それぞれの酒蔵に特有の味が消費者に届かなくなる。酒蔵としても酒造家という、一種の工芸品の作者としての造り甲斐がなく、企業努力をしなくなる。加えて、買い手である大メーカーの言うままに酒を造っていればよかったので、蔵の本来の持ち味はどんどん失われていった。酒米の配給制は昭和43年度末まで続いた。
※この「食糧管理制度の形骸化」の解説は、「日本酒の歴史」の解説の一部です。
「食糧管理制度の形骸化」を含む「日本酒の歴史」の記事については、「日本酒の歴史」の概要を参照ください。
- 食糧管理制度の形骸化のページへのリンク