雛鶴姫の伝承
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無生野の大念仏の起源、発祥の由来については、南北朝時代の、後醍醐天皇の皇子である、大塔宮護良親王の悲劇にまつわる雛鶴姫(ひなづるひめ)と、姫に仕えた人々の霊を慰めるために始まったものと伝えられており、無生野地区では以下のような伝承が古くから語り継がれている。 建武2年7月23日(1335年8月12日)鎌倉将軍府にあった足利直義によって、鎌倉二階堂ガ谷の東光寺の牢に幽閉されていた護良親王は、直義に命じられた淵辺義博によって殺害されたが、無念さを隠しきれない親王は刺客となった淵辺義博の顔を死後もにらみつけていたため、その形相に恐れをなした義博は、その首級を周囲の竹薮に捨て逃走した。 護良親王の寵愛を受けていた侍妃雛鶴姫は、親王の首級を竹薮から探し出すと、数人の従者と共にその首級を携え、ひそかに鎌倉を発った。相州(現:神奈川県)各地を転々とし、やがて甲斐(現:山梨県)秋山郷へと入り秋山川沿いを遡って行ったが、雛鶴姫はその頃、護良親王の子供を宿しており臨月の身重であった。秋山川上流部は当時人家も少なく、宿を乞う家も見当たらないまま雛鶴姫は産気づいてしまう。従者たちはやむなく、付近の木の葉を集めてしとねとし、そこを産所として皇子を出産したが、その日は師走の29日であったと言われ、真冬の寒さと飢えのため、雛鶴姫と生まれたばかりの皇子は他界してしまった。悲しんだ従者たちは、雛鶴姫と皇子の亡骸を手厚く葬り、護良親王の神霊とともにこの地に祀り、永久に冥福を祈るためにここに帰農した。 雛鶴姫に同情した村人は、正月用に飾りつけておいた門松を取り払い、樒(しきみ)の枝を立てて冥福を祈ったという。無生野地区では今日でも正月に門松を立てず、松飾りを行わない風習が残されている。また、雛鶴姫が臨終の際に悲しみのあまり、ああ無情…と嘆いたことから、この地が無情の野と呼ばれるようになり、無情野、そして無生野という地名になったと伝えられている。 それから約20年後、護良親王の王子である綴連王(つづれのおう)が戦乱の中を逃れ、この地にたどり着くと、無生野の人々から雛鶴姫の話を聞かされた。綴連王は無生野と自分との不思議な因縁を感じ、この地に住むようになり、一子五孫の繁栄を見て天寿を全うした。無生野の人々は、大塔宮護良親王、雛鶴姫、綴連王の3人を神に祀り、その供養のために大念仏を始めたと伝えられている。この綴連王は葛城宮とも言い、正史において陸良または興良親王に比定されているが、その後半生は行方不明とされている。また、雛鶴姫が生んだ皇子は死んでおらず、成長して綴連王となった等、諸説あるが、いずれにしても護良親王と雛鶴姫の悲劇の故事を発端として、無生野の大念仏は始まったと伝えられている。 以上で述べた雛鶴姫の言い伝えは、あくまでも伝承であり、文献や資料の上でこれを実証することは困難である。しかし、この伝承が無生野の大念仏の保存・継承に果たした役割は大きく、無生野における伝統行事としての大念仏は雛鶴姫伝説と結びつくことによって、より神聖化され崇敬の念をもって、今日まで絶えることなく続いてきたものと考えられている。大塔宮護良親王、葛城綴連王、雛鶴姫の3名を祀った小さな祠が、無生野地区の西端、雛鶴峠の直下にあったが、この祠のあった場所に、1989年(平成元年)10月22日、雛鶴神社が建立されている。
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