雛鶴姫の伝承とは? わかりやすく解説

雛鶴姫の伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 18:52 UTC 版)

無生野の大念仏」の記事における「雛鶴姫の伝承」の解説

無生野の大念仏起源発祥由来については、南北朝時代の、後醍醐天皇皇子である、大塔宮護良親王悲劇まつわる雛鶴姫(ひなづるひめ)と、姫に仕えた人々の霊を慰めるために始まったものと伝えられており、無生野地区では以下のような伝承古くから語り継がれている。 建武2年7月23日1335年8月12日鎌倉将軍府にあった足利直義によって、鎌倉二階堂ガ谷の東光寺の牢に幽閉されていた護良親王は、直義命じられ淵辺義博によって殺害されたが、無念さ隠しきれない親王刺客となった淵辺義博の顔を死後にらみつけていたため、その形相恐れをなした義博は、その首級周囲竹薮捨て逃走した護良親王寵愛受けていた侍妃雛鶴姫は、親王首級竹薮から探し出すと、数人従者と共にその首級携えひそかに鎌倉発った相州(現:神奈川県各地転々とし、やがて甲斐(現:山梨県秋山郷へと入り秋山川沿いを遡って行ったが、雛鶴姫その頃護良親王の子供を宿しており臨月身重であった秋山川上流部当時人家少なく、宿を乞う家も見当たらないまま雛鶴姫産気づいてしまう。従者たちやむなく付近木の葉集めてしとねとし、そこを産所として皇子出産したが、その日は師走29日であったと言われ真冬寒さ飢えのため、雛鶴姫生まれたばかりの皇子他界してしまった。悲しんだ従者たちは、雛鶴姫皇子亡骸手厚く葬り護良親王神霊とともにこの地に祀り永久に冥福を祈るためにここに帰農した。 雛鶴姫同情した村人は、正月用に飾りつけておいた門松取り払い(しきみ)の立てて冥福祈ったという。無生野地区では今日でも正月門松立てず松飾り行わない風習残されている。また、雛鶴姫臨終の際に悲しみのあまり、ああ無情…と嘆いたことから、この地が無情の野と呼ばれるようになり、無情野、そして無生野という地名になった伝えられている。 それから約20年後、護良親王王子である綴連王(つづれのおう)が戦乱の中を逃れ、この地にたどり着くと、無生野の人々から雛鶴姫の話を聞かされた。綴連王は無生野と自分と不思議な因縁感じ、この地に住むようになり、一子五孫の繁栄見て天寿を全うした。無生野の人々は、大塔宮護良親王雛鶴姫、綴連王の3人を神に祀り、その供養のために大念仏始めた伝えられている。この綴連王は葛城宮とも言い正史において陸良または興良親王比定されているが、その後半生行方不明とされている。また、雛鶴姫生んだ皇子死んでおらず、成長して綴連王となった等、諸説あるが、いずれにしても護良親王雛鶴姫悲劇故事発端として、無生野の大念仏始まった伝えられている。 以上で述べた雛鶴姫言い伝えは、あくまでも伝承であり、文献資料の上でこれを実証することは困難である。しかし、この伝承が無生野の大念仏保存継承果たした役割大きく無生野における伝統行事としての大念仏雛鶴姫伝説結びつくことによって、より神聖化され崇敬の念をもって今日まで絶えことなく続いてきたものと考えられている。大塔宮護良親王葛城綴連王、雛鶴姫の3名を祀った小さな祠が、無生野地区の西端雛鶴峠直下にあったが、この祠のあった場所に、1989年平成元年10月22日雛鶴神社建立されている。

※この「雛鶴姫の伝承」の解説は、「無生野の大念仏」の解説の一部です。
「雛鶴姫の伝承」を含む「無生野の大念仏」の記事については、「無生野の大念仏」の概要を参照ください。

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