開設に至る経緯
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1978年に落語協会を脱会した6代目三遊亭圓生が、ほとんどの一門弟子や孫弟子と共に落語三遊協会を設立したが、翌1979年9月3日に圓生が急死したことから落語三遊協会は自然消滅し、翌1980年2月1日に総領弟子5代目三遊亭圓楽を除く、6代目三遊亭圓窓、三遊亭圓彌、三遊亭圓丈などは落語協会に復帰した。 圓楽は1980年に大日本落語すみれ会(1985年に落語円楽党、1990年に円楽一門会に改名)を創立したが、圓楽一門は浅草演芸ホール、鈴本演芸場、新宿末廣亭、池袋演芸場を原則使用することが出来ないため、圓楽は弟子達の稽古場を設けるため自らの私財を投げ打ち、1億4千万円の借金(総額6億円以上)をして1985年4月に寄席若竹をオープンした。 寄席のオーナーを席亭と呼ぶが、江戸時代に始まる落語の歴史上、一落語家が席亭を兼ねることは、極めて稀である。 圓楽の高弟に当たる三遊亭鳳楽・三遊亭好楽・三遊亭円橘・三遊亭楽太郎は、圓楽の命令で若竹でそれぞれ一か月に3回の独演会を開催していた。弟子にも関わらず会場の使用料を一回につき6万円払わせていたため、落語協会の落語家からは陰で「寄席を作った上に弟子から上納金を取ってやがる」と言われていたという。 円楽党以外の落語家にも門戸を開放しており、落語芸術協会・落語立川流の落語家も賛助会員として出演した。一方落語協会の側では所属落語家の若竹への出演を禁じていた。 若竹オープン時、立川談志は「成功は半分の可能性、下手すると半分以下」と分析している。4年後、若竹が閉場すると圓楽は「松岡(談志の本名)の言う通りだった」と自らの失敗を認めた[要出典]。 当時、圓楽が司会を務めていた『笑点』(日本テレビ)では、年に何度か若竹で公開収録が行われていた。若竹閉鎖後も大喜利内で「若竹の跡地」「(若竹の)借金取りに囲まれる」「弟子に潰された」等と頻繁にネタにされていた。大喜利以外でも盟友の桂歌丸は左甚五郎を主人公とする落語を演じる際の枕で、名前を残した人物の例に「自分で立てた寄席を自分で潰して名前を残した」とネタにすることがあった。このほか、大喜利の座布団10枚の賞品としてパラオに「第2若竹」を建設するという企画が放送されたことがある(獲得者は三遊亭小遊三。1999年6月20日・27日放送。小遊三が現地の人に落語を演じるものだった)。
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