長岡宮跡とは? わかりやすく解説

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長岡宮跡

名称: 長岡宮跡
ふりがな ながおかきゅうせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 京都府
市区町村 向日市鶏冠井町
管理団体 向日市(昭4912・12)
指定年月日 1964.04.27(昭和39.04.27)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 平成18.07.28
解説文: 延暦三年十一月、都は平城京から長岡京遷り十年後の同十三十月平安京移った
長岡宮規模は、從来明らかでなかったが、最近門跡発見され、ついで大極殿および小安殿の跡が判明する至ったので、この両殿の地を指定しようとするのである大極殿跡は、地表削平せられ、礎石はその痕跡すら止めていないが、周辺石敷凝灰岩痕跡等により、基壇東西40.3メートル南北21.6メートル認められる。その南面中央とその東西とに三か所の階段の跡があり、北面にも南面の西階に対応する西階の跡がある。中央東方は、道路家屋があって未調査ではあるが、それぞれ施設があったと推定される
小安殿跡は、大極殿跡の北に接し東西31.55メートル南北15.25メートル基壇上に桁行7間、梁行2間の建物があったと認められ礎石根石基壇周辺石敷遺存している。基壇北面には、中央東西三階段の跡がある。南面はき損されているが、階段等の施設があったと推定される。き損のあとも少なくはないが、基壇周辺石敷上からは古瓦が発見され現存遺構は、よく両殿の規模をとどめ、長岡宮整備の姿を示すものとして貴重であり、更に長岡宮長岡京の全貎を考察する上に規準となるものであって日本歴史極めて重要な遺跡である。
S54-12-048[[長岡宮跡]ながおかきゅうせき].txt: 長岡宮跡は、昭和39年4月27日史跡指定その後追加指定をしたが、昭和54年2月向日市鶏冠井町市道拡幅工事の際、南北方向の[[築地]ついじ]跡が発見された。発掘調査結果築地は既に東半部が削平されてはいたが、残存82メートルを測り、しかも高さ1メートルに及ぶ築地本体部遺存していた。この築地は、長岡宮内裏築地回廊西辺部の南延長線175メートル位置にあり、長岡宮太政官院区画する築地一部であった可能性考えられ追加指定して保存を図るものである
S48-05-142長岡宮跡.txt: 長岡京桓武天皇のとき延暦3年784)から、のちの平安京西南方に造営された都であり、その宮跡は、昭和39年大極殿院跡の一部、すなわち大極殿跡と小安殿跡が史跡指定されたが、その後昭和41年42年発掘調査結果明らかになった内裏廻廊跡のうち、その北西部分昭和48年3月追加指定をした。
H10-12-044[[長岡宮跡]ながおかきゅうせき].txt: 長岡宮跡は、向日丘陵位置する昭和37年宅地造成に伴う発掘調査により大極殿跡が発見されるに及び、わが国歴史上きわめて重要な都城ひとつとして昭和48年史跡指定されその後内裏築地回廊内裏南方築地朝堂院西第四堂が追加された。平成9年になって大極殿前庭部民間住宅建設に伴う発掘調査実施され、これによって宝幢遺構3基が検出された。遺構は、長さ2.1メートル、幅約1.2メートル深さ約0.8メートル柱穴で、大極殿南端から約30メートル(約100尺)南の位置に、3メートル間隔で計画的に配置された7基のうちの東側3基分に相当する考えられる柱穴底面には中央に大設置痕跡が、その左右に脇柱痕跡残っていた。平城宮大極殿前庭検出され同様の遺構は、天皇即位式に際して建てられたものと考えられているが、即位式行われなかった長岡宮宝幢は、朝賀に伴うものとみられる。この調査により、これまで文献資料でしかうかがえなかった朝賀儀式一端が明らかとなったため、この地域を含む一帯史跡追加指定し保存万全を期そうとするものである
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