長光寺城の戦いと瓶割り柴田とは? わかりやすく解説

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長光寺城の戦いと瓶割り柴田

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 10:18 UTC 版)

野洲河原の戦い」の記事における「長光寺城の戦いと瓶割り柴田」の解説

野洲河原の戦い先立ち柴田勝家の守る長光寺城で戦いがあったともいい、このときのエピソードが「瓶割り柴田」の名の由来となっている。しかし、この話は『武家事紀』が初出であり、事実ではないと見られている。 『武家事紀』によると、元亀元年1570年6月六角義賢父子長光寺城を囲んだ義賢は郷民から長光寺城内出ず後ろの谷から掛け引いていると聞き平井甚助水源止めさせた。勝家残った入れた瓶を三つ並べこのままでは渇して死ぬのは疑いなく、力のあるうちに必死戦いをしようと言うと、皆が賛成した。そこで三つの瓶を打ち割り捨て、翌16日城外打って出六角旗本切り崩し野洲河原三雲高野瀬水原六角勢を討ち取ったという。ここでは、これより勝家俗に「ツボワリ柴田」、「鬼柴田」と呼ぶようになったとする。 この話は次第尾ひれがつき、『常山紀談』では、六角側が水源絶った後、平井甚助和平使者立って城内入った対面後手請うと、勝家は缸(かめ)に入れて小姓二人で担いで来させ、甚助手洗い済ませると、残ったを庭に捨てさせた。甚助帰って城内には豊富だ報告し六角側は困惑勝家最後の宴をしてを皆に飲ませると、缸を眉尖刀なぎなた)の石突砕き夜明け六角側を急襲して大敗させ、800余の首を上げた信長勝家感状与え、これより勝家世に「缸砕り(かめわり)柴田」と称したとなっている。 『絵本太閤記』になると、元亀元年5月21日1570年6月24日)に六角軍は兵800余人籠城した長光寺城を攻撃する落ちず六角側に多数死者がでた。義賢家老三雲新左衛門図り城中への水源止めた義賢平井甚助使者とし勝家士卒助命条件降伏勧告を行うが、勝家はこれを拒絶した甚助部屋を出ると、多数の兵が庭で沐浴していた。甚助帰って城中には充分にあると報告した一方勝家残った水瓶三つを庭に置き、これから討ち死にしようと思うが、老父母や幼子のいる者は城を出て落ち延びよと言うと誰も逃げる者はいなかった。勝家は皆に思う存分飲ませると、もはや蓄え無用長刀石突きで瓶を砕いた6月3日早朝勝家は敵が油断しているところへ打って出て、300余人討ち取り義賢石部城へ落ち延びた信長勝家称えて手ずから感状与え、これより世人勝家を「瓶割り柴田」と呼んだとする。 ここでは佐久間信盛登場せず、代わりに木下秀吉手柄をたてている。長浜城にいて長光寺城の窮状聞いた秀吉は、勝家なら簡単に落城しないだろう踏みこの間義賢留守鯰江城攻め取れば長光寺城の囲み解け一挙両得考える。秀吉加藤清正福島正則に兵1,000預けて出陣させ、計略用いて鯰江城乗っ取る。しかし、このころ清正正則まだ子供のはずであり、秀吉長浜城主になるのは天正元年1573年)、鯰江城落城もその年で、実際に佐久間盛政蒲生賢秀丹羽長秀柴田勝家によってであるから、この話はまったくの創作に過ぎない

※この「長光寺城の戦いと瓶割り柴田」の解説は、「野洲河原の戦い」の解説の一部です。
「長光寺城の戦いと瓶割り柴田」を含む「野洲河原の戦い」の記事については、「野洲河原の戦い」の概要を参照ください。

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