鎮台制の師管(1873 - 1888)
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1871年6月(明治4年4月)に設置された鎮台は、2、4、6としだいに数を増やした。管区が明確になったのは4鎮台になった同年10月(明治4年8月)だが、この時は兵力・区域ともに鎮台間の格差が大きく、全国斉一の制度とは言えなかった。 師管が設けられたのは、鎮台条例改定により6鎮台が設置された1873年(明治6年)1月である。このとき鎮台の管轄が軍管、連隊の管轄が師管と定められた。その条文によれば、戦時に一師を興すに足るをもって師管と名付けたものである(第2条)。6つの軍管のうち東京の第1軍管と大阪の第4軍管が各3師管、第2、第3、第5、第6は各2師管を持つ(第1条)。北海道には鎮台が置かれず、師管もなかったが(第5条)、屯田兵設置の計画があった。他に天皇の護衛と位置づけられた近衛も師管を持たなかった。師管には番号が付けられたが、連隊所在地の地名で東京師管、佐倉師管などとも呼ばれた(第1条、第3条)。師管ごとに歩兵1個連隊が置かれ、管内の反乱鎮圧に備えた(第7条)。師管の管内には40か所の営所が置かれ、14の本営とあわせて全国54か所に駐屯した(第4条)。 鎮台制のもとで、多くの権限は軍管(鎮台)に置かれ、師管(連隊)の権限は多くなかった。特に、鎮台の所在地が置かれた師管では、管内に行使するすべての権限は鎮台の司令部が行使したので、所在地の連隊は作戦部隊として行動するのみであった。鎮台が所在しない師管では、連隊長が司令官として師管に対する権限を持った。1877年(明治10年)1月20日に師管営所官員条例が制定されて、その権限が細かく規定された。司令官の最重要任務は管内の「草賊」、つまり国内反乱の鎮圧にあり(第1条)、不穏な情勢を偵察し(第5条)、政府中央や鎮台との連絡の猶予がない緊急時に地方官の要請で出動することができた(第6条)。 1885年(明治18年)5月の鎮台条例改正で、軍管を治める鎮台司令官が戦時に師団長となり、師管は旅団長が担任することになった(第1条)。また、1軍管に一律に2師管が置かれることになり(第1条)、3師管をもっていた東京と大阪では、東京軍管の高崎、大阪軍管の大津師管が廃された。1師管には2個歩兵連隊が属したので、6軍管・師団、12師管・旅団、24個歩兵連隊で、以前と比べて10個連隊の増である。師管すなわち旅団の番号は新たに振り直され、旧師管の番号は連隊に受け継がれた。屯田兵がいる北海道の第7軍管に師管がなく、近衛が師管を持たないのは、以前と同様である。この改正では、鎮台所在地以外にある師管の旅団長が営所司令官となり、鎮台司令官に準じて騒擾鎮圧等の任にあたることが定められた(第29条、30条)。 またこの1885年(明治18年)改正では、師団・旅団が出征したときの軍管・師管の事務について初めて規定が設けられた。鎮台司令官が征戦するときには代わりの鎮台司令官が置かれ、旅団長が征戦するときにはその次官が師管の留後の事務を代理することとされた(第6条)。 ここまで説明した鎮台制の師管は、のちの師団制で旅管へ、そして連隊区へと継承された。下に師管から連隊区への用語変遷を掲げる。これより後に説明する師団制の師管は、鎮台制の軍管を継承したものである。 師管から連隊区への変遷年 地区名 置かれる軍隊 司令官 1873 - 1885 師管 歩兵連隊 連隊長 1885 - 1888 師管 歩兵旅団 旅団長 1888 - 1896 旅管 歩兵旅団 旅団長 1896-1946 連隊区 歩兵連隊 連隊区司令官
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