鎮台兵の出撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
その頃、熊本城では薩軍の包囲兵力が減少したこともあり、部隊を城外に出して偵察や後方攪乱を幾度か行っていた。最初の城外出撃は2月27日に行われ、大迫尚敏大尉率いる偵察隊は坪井方面の威力偵察に出撃した。3月26日、植木方面で銃声を聞くが征討軍が現れないので、後方攪乱部隊を3隊に分け、京町口・井芹村・本妙寺に出撃させた。これらの部隊は一時薩軍を撃退したものの、逆襲に遭い撤退した。 籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台は余力があるうちに征討軍との連絡を開こうとして、南方の川尻方面に出撃することにした。隊を奥保鞏少佐率いる突囲隊、小川大尉率いる侵襲隊、および予備隊の3つに分け、4月8日に出撃した。侵襲隊が安巳橋を急襲し、戦っている間に突囲隊は前進し、水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て宇土に到達する。侵襲隊は薩軍の混乱に乗じて九品寺にある米720俵・小銃100挺などを奪って引き揚げた。 衝背軍は突囲隊と合流したことで城内の糧食が欠乏している事を知り、早急に救援に向かうべく、12日を期して総攻撃を開始する事を決断する。しかし衝背軍は背後を逆に薩軍に脅かされる事態となる。
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