配電会社化と事業拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:25 UTC 版)
日露戦争後に電気の需要が増加すると、富山電灯改め富山電気では発電力増強に乗り出し、1908年(明治41年)3月より婦負郡細入村庵谷(現・富山市庵谷)にて庵谷発電所の建設に着手する。高岡電灯でも需要増加に伴って開業以来の60キロワットの火力発電では対応できなくなっていたが、富山電気のように新発電所建設に踏み切ることはなく、1908年7月に同社と受電契約を締結して受電への転換を決定した。この庵谷発電所は翌年8月の落成を予定していたが、難工事が続いて工期が伸びたため、高岡電灯では暫定的に消費電力の小さい高価なタンタル電球を輸入して新規需要に対応している。 1910年(明治43年)3月、高岡電灯では配電設備拡充のため資本金を3万円から10万円へと増資。翌1911年(明治44年)1月に富山電気庵谷発電所が運転を開始したのを受けて、同年5月より同社からの受電を開始した。受電開始に伴い高岡以外にも伏木町や新湊町(現・射水市)へ配電範囲が拡大されていった。供給拡大の結果、1914年(大正3年)には電灯数が1万灯に達する。さらに大戦景気のため1916年より急速に供給が増大し、1919年(大正8年)には電灯数は3万灯、電力供給は1000キロワットを超えるに至った。また増資も相次ぎ、資本金は10万円から1913年(大正2年)6月に25万円、1922年(大正11年)1月には100万円へと増加している。 大戦景気の時期、新湊には日本鋼管電気製鉄所(現・JFEマテリアル)、伏木には北海電化工業(現・日本重化学工業)や北海曹達(現・東亞合成高岡工場)、北海工業(後の日本製紙伏木工場)といった工場が進出し、伏木港を囲む工業地帯が形成された。新湊・伏木両町とも高岡電灯の供給区域ではあるが、これらの諸工場に対する電力供給は配電会社化した高岡電灯ではなく富山電気が直接行った。富山電気では大口供給拡大の結果供給力不足に陥る。高岡電灯では自社区域の需要増加に富山電気からの受電増強で対応していたが、同社も1920年(大正9年)上期に新規申し込みに対応できなくなるほどの供給力不足に追い込まれ、同年9月より富山県内で水力開発を手掛ける立山水力電気からの受電を余儀なくされた。受電電力は1921年6月時点で立山水力電気からは100キロワット、富山電気からは1,119キロワットであった。 高岡電灯の拡大の一方、高岡でも都市ガス事業が計画され、1914年4月に高岡瓦斯(現・高岡ガス)が発足、7月からガス供給が開始された。この高岡におけるガス事業は、初め高岡電灯の兼営とする予定で菅野伝右衛門らが準備していたが、事業許可を得た段階で関東のガス工事業者に権利を譲渡し撤退していた。これは公共性の強い事業を2つとも高岡電灯が独占するという事態は避けた方がよい、との判断からであるという。ガス開業からほどなく神通川で洪水が発生し庵谷発電所が故障して40日間の停電が発生、この間電灯需要家が一部ガス灯へ流出した。しかし高岡電灯側が復旧とともに電力消費が少なく明るいタングステン電球の普及に力を入れるとガス灯の優位性はなくなった。従って高岡瓦斯では熱用利用の普及に力を入れた。
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