配布と反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 07:54 UTC 版)
フランス生まれでフィラデルフィア在の印刷屋フルーリー・メスプレがフランス語版を2,000部印刷した。別のフランス語版(最初は「ダンラップのペンシルベニア・パケット」で印刷された)も出回っており、大陸会議が作らせた「公式」のものよりも速くカナダに到着した。しかし、当時のカナダ総督ガイ・カールトン将軍によってこの手紙の広い範囲への配布は妨げられた。カールトンはイギリス本国の上官に「総合会議からの重要な手紙を受け取ったとモントリオールで噂が広まっている」と報告した。町の集会が開かれ、「隣の植民地と同じ精神を味わい、多くの者が同調しようといている」とも告げた。これら町の集会は英語を話す人々が支配していたと思われ、大陸会議に送る代表団を選ぶことなく終わった。 1775年前半、ボストンの通信委員会がジョン・ブラウンをケベックに派遣して、情報を集め、住民感情を量り、反乱を扇動させようとした。ブラウンは英語を話す住人の中に様々に交じり合った感情を見出した。そのある者は大陸会議の採用した輸出ボイコットが起これば、実質的にフランス語を話す人々にとって毛皮貿易が有利になることを心配していた。フランス語を話す人々の大半はイギリス支配に関して中立であることを最善とした。ある者はその方向に満足したが、より多くの者がアメリカ人を援助することを目指すようになった可能性がある。ブラウンはケベックの軍隊配備が比較的少ないことも報告した。カールトン将軍はブラウンが行動していることを気付いていたが、地元新聞にその手紙を載せるのを止めさせた以外、特に干渉しなかった。
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配布と反応
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プライスがニューヨーク植民地議会からの類似した手紙と共にこの手紙をモントリオールに運び、植民地人に配った。英語を話す商人達の多くは毛皮貿易とそのヨーロッパの市場に依存していたので、その状況を心配していた。フランス系住民は概して、比較的親密感の無かったイギリス人の自由に対するアピールに影響されなかった。しかし、彼らは既存の軍政府を支援するのでもなく、徴兵の呼びかけに応じた者も少なかった。より多くの住民は日和見的であり、物資の代価を払ってくれる限り勝っている軍隊に従うことで満足していた。 最終的にアメリカ人はケベックで限られた支援しか得られず、大陸軍に参陣した2個連隊を立ち上げたに留まった。1775年11月のカナダ侵攻作戦中に第1カナダ連隊が結成され、第2カナダ連隊の結成は1776年1月のことだった。
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配布と反応
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その仏語訳は今回もフルーリー・メスプレが印刷したが、委員会の中の誰が草稿を書いたか、およびデュ・シミティエールが翻訳したかは明らかでない。ヘイズンとアンティルがモントリオールを占領している植民地軍の指揮官デイビッド・ウースターに手紙の写しを運んだ。ウースターは2月末に手紙の配布を監督した。 この手紙には果果しい反応が無かった。カナダ住民は紙幣で物資の代価を払われることに不満であり、植民地軍による占領を快く思っていなかったからだった。
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