配布と弾圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 00:21 UTC 版)
『急使』はヴァイディヒが手配した秘密印刷所にて7月中に刷り上げられた。7月30日から31日にかけての夜に印刷所から刷り上った『急使』を受け取り、警察の目をくらますため、複数の地区で一斉に頒布に取り掛かることとなった。しかしヴァイディヒの仲間のひとりであったコンラート・クールが警察に身を売っており、彼の密告で8月1日の夕刻、ギーセンに『急使』を運んできたミニゲローデが逮捕された。8月2日にはヘッセン政府より高級裁判所予審判事コンラート・ゲオルギにこの件の取調べが命じられ、8月3日より次々に関係者が逮捕されていった。ビューヒナーはミニゲローデ逮捕の直後すぐに行動を開始しており、この日の夜のうちにブッツバッハに向かいヴァイディヒ、ベッカーと今後の対応を協議、また仲間のもとを訪れて危険を告げて回った。この間にビューヒナーのギーセンの下宿先で家宅捜索が行なわれ手紙類が押収されたが、ビューヒナーはこの際の法的手続きの手抜かりにつけこんで抗議を行い、逮捕を免れた。 ビューヒナーは心配した両親の意向に従って故郷のダルムシュタットに戻り、ここで翌年まで自然科学の研究に没頭した。しかし翌年に仲間の亡命の件で参考人として裁判所に呼び出されたことから危険を感じ、1835年3月にストラスブールに亡命した。ビューヒナーはこの地で自然科学の研究を続け、翌年にチューリヒ大学で解剖学の講師の職を得たが、チフスにかかり1837年2月に没している。ヴァイディヒも当初逮捕を免れていたが、9月頃にブッツバッハから寒村オーバーグリーンに左遷された。ヴァイディヒはこの地で密かに『急使』第2版を出版、頒布を行なっている。しかし逮捕された仲間の自白から1835年4月に逮捕され、ゲオルギの過酷な拷問に2年のあいだ耐え続けたのち、1837年に獄中で自殺した。
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