郡の組織化
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「ジャスパー郡 (ミズーリ州)」の記事における「郡の組織化」の解説
1841年1月29日、ミズーリ州議会がジャスパー郡を組織化し、アメリカ独立戦争の英雄ウィリアム・ジャスパーに因んで名付けることを認める法案を成立させた。郡政府はまず郡内を3つの郡区、ノースフォーク、センタークリーク、マリオンに分割したが、その後15の郡区に分割し、現在でも法人化されないままでいる。 1841年2月25日木曜日、ジョージ・ホーンバックの家を仮の郡庁とした。これは12フィート (3.6 m) x 16フィート (4.8 m) の丸太小屋であり、スプリング川沿いカーシージからは北西に1.5マイル (2.4 km) の位置にあった。サミュエル・M・クーリー、ジェレマイア・クレイブンス、サミュエル・B・ブライトが最初の郡政委員になった。初代保安官のジョン・P・オズボーンは、恒久的な郡庁舎が建設されるまで、郡庁舎はジョージ・ホーンバックの家を使うということを大衆に知らせるという命令を受けた。 1842年3月、恒久的郡庁所在地が選定され、カーシージと名付けられた。1842年6月29日に、一階建て、一室、木造で、南面に大きなドアのある建物が完成した。カーシージの町の公衆広場北側にあった。この郡庁舎は後の1854年に完成した二階建て、レンガ造りの建物に置き換えられ、郡収監所も兼ねた。 1861年、南北戦争が始まったとき、郡内には幾つかの小さな「水車工場町」、幾つかの「鉱山キャンプ」、「9ないし10の町」(7つは区画割されていた)があった。郡庁所在地のカーシージには人口推計400ないし500人がいた。南北戦争の間、郡庁舎は病院として使われ、1863年10月に起きた戦闘中の火事で破壊された。終戦のときまでカーシージの町は住人が居なくなり、完全に破壊され、ジャスパー郡の大半が廃墟になった。1865年、州知事の命令で、郡庁舎はケイブスプリングス、現在のラサールの町近くにあった学校に移された。1890年代半ばに現在の郡庁舎がカーシージの広場に建設されるまでの数十年間、郡庁舎は郡内の幾つかの場所に暫定的に置かれていた。 現在の郡庁舎は建築家マックス・A・オーループ・ジュニアが設計したリチャードソン・ロマネスク様式であり、1894年から1895年に建設された。地元の大理石を使い、タレット、塔、アーチのある中世城郭の様相である。現在はアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定され、博物館とガイド付きツアーが公開されている。 ジャスパー郡は2001年に郡旗を採用し、郡創設160周年に公開された。この旗は郡庁舎を15の星が取り巻いており、その星は15の郡区を表している。中央の青と赤の星は、南北戦争中、1861年のカーシージの戦いと1863年の2回目の戦闘などジャスパー郡内で行われた戦闘を記念するものである。 2011年5月22日日曜日、ジャスパー郡は改良藤田スケールEF5の竜巻に襲われた。この2011年ジョプリン竜巻はアメリカ史の中でも7位に位置づけられる猛威を残した。
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