郡の解体過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/05/09 03:59 UTC 版)
新治郡をはじめとする7世紀末~8世紀初頭に成立した常陸国の郡は、律令制の動揺とともに在地の豪族など諸勢力による細分化、再編成が進んだ。新治郡からはまず、小栗御厨が伊勢神宮領として分出。残った領域が東郡、中郡、西郡の三郡に分かれ、このうち西郡が更に北条、南条に二分された。西郡北条が伊佐郡、南条が関郡である。 1594年(文禄3年)に常陸国内で太閤検地が行われた際に再び新治郡が成立したが、これは古代の茨城郡、筑波郡、信太郡の領域のそれぞれ一部からなるものであり、古代の新治郡とは全く領域を異にする。近世以降、近代を経て2006年(平成18年)に消滅した茨城県の新治郡は、これである。 一方、古代の新治郡から分立した郡・荘のうち、東郡(笠間郡)は茨城郡、関郡が河内郡、下妻荘の東部が筑波郡の一部となったほかは真壁郡の一部となった。関郡から編成された(西)河内郡も1702年(元禄15年)に真壁郡に編入されている。
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