選帝侯時代
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「アウグスト2世 (ポーランド王)」の記事における「選帝侯時代」の解説
1670年、ヨハン・ゲオルク3世とデンマーク王フレデリク3世の娘アンナ・ソフィーとの間の下の息子として、ドレスデンで生まれた。次男だったアウグストは選帝侯の座を継ぐことは出来ず、1691年9月12日に父が死ぬと兄ヨハン・ゲオルク4世が選帝侯と公国を相続した。1693年1月20日、アウグストはブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストの娘クリスティアーネ・エーベルハルディーネと結婚し、夫妻には一人息子フリードリヒ・アウグスト(後のアウグスト3世)が生まれた。 ヴェネツィアのカーニヴァルを遊覧した際、兄ヨハン・ゲオルク4世は愛妾マグダレーネ・ジビレ・フォン・ナイトシュッツから天然痘をうつされた。1694年7月24日、兄が嫡出子を残さないまま急死したため、アウグストがフリードリヒ・アウグスト1世として選帝侯を継いだ。1696年に大トルコ戦争におけるドナウ川方面の司令官に任命されたが、一向に戦果を挙げられず翌1697年にプリンツ・オイゲンに交代させられた。 ポーランド・リトアニア共和国の国王選挙に出る資格を得るため、アウグストはカトリックに改宗した。ザクセンの選帝侯たちは伝統的に「宗教改革の擁護者」と呼ばれ、選帝侯国はドイツにおける福音主義教会の拠点であったため、アウグストの改宗は世間を驚かすものであったが、何ら抗議を受ける事はなかった。しかしカトリック教徒となったザクセン選帝侯は、帝国議会における新教徒派の指導者の地位をブランデンブルク=プロイセンに奪われることになり、ザクセン選帝侯はザクセンの宗教的一体性を保障して来たため、アウグストの改宗によって福音主義教会信徒臣民の一部が公国を離れることになった。アウグストの王位獲得の野心のために、ザクセンの国庫から出された莫大な資金がポーランドの貴族や聖職者への賄賂に消え、同時代人はアウグストの王座への執念を「ポーランドへの投機」と呼んで嘲った。 神聖ローマ帝国において、カトリック諸侯会議に対抗する新教徒諸侯会議の議長役はザクセン選帝侯に決まっており、アウグストはカトリックでありながら議長を務めることになった。帝国内におけるアウグストの教会政策は正統派ルター主義だったが、後にはカトリックと絶対主義に変わった。帝国内の新教徒諸侯と残り2人の新教徒選帝侯(ハノーファーとブランデンブルク=プロイセン)は、ザクセンが新教徒陣営に一貫して居続けるのかどうか不安に感じていた。アウクスブルクの和議により、アウグストは理論上はカトリックを公国の体制宗教に設定することが可能であり、少なくともカトリックの臣民に完全な宗教的自由を与える権限を持っていたが、これらの権限が行使されることはなかった。ザクセンはその後もルター派領邦であり続け、少数のカトリック教徒住民には何の参政権、市民権も与えられなかった。 1717年になると、状況をさらに錯綜させるような問題が浮上した。ポーランドとドイツの2国におけるアウグストの王朝的野心を満たすためには、彼の後継者はカトリックである必要があるというのである。5年後、アウグストの嗣子フリードリヒ・アウグストがカトリックに改宗したことが公に発表された。ザクセンの人々は憤慨し、反発が起きた。カトリックへの改宗が便宜的なものではなく、内実を伴ったものだということが明らかになったためである。 アウグストの妻クリスティアーネは夫の改宗には従わず、熱烈なルター派であり続けた。彼女はポーランドでの夫の戴冠式にも参加せず、ドレスデン郊外で孤独な生活を送り、その頑なな態度には賛否両論があった。
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