選帝侯から国王へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:24 UTC 版)
「フリードリヒ1世 (プロイセン王)」の記事における「選帝侯から国王へ」の解説
1688年に父が死去し、フリードリヒ1世は後を継いで選帝侯となるが、この時はまだブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世と呼ばれていた。選帝侯となったフリードリヒ3世は恩師ダンケルマンと、愛人カタリーナの夫ヨーハン・カジミール・コルベ・フォン・ヴァルテンベルクを大臣とした。同年にフランスが大同盟戦争を勃発させると他の帝国諸侯と協議してライン川から北のモーゼル川戦線の守備を担当した。 フリードリヒ3世は才女だった妃ゾフィー・シャルロッテの影響もあって学芸を振興させた。1693年にハレ大学を創立し、後に建築総監となるアンドレアス・シュリューターを招いてベルリン武器庫の建設を始めさせた他、1695年にベルリン芸術アカデミーを創設、1699年にはゾフィー・シャルロッテの住居となりサロンが置かれたリーツェンブルク宮殿(現在のシャルロッテンブルク宮殿)を造営、1700年にベルリン学術協会を創立して会長にゾフィー・シャルロッテと親交のあったライプニッツを迎えている。 1700年11月16日、フリードリヒ3世はスペイン継承戦争でハプスブルク家に味方することを約束し、その代償として神聖ローマ皇帝レオポルト1世から王の称号を許された。こうしてフリードリヒ3世は1701年1月18日、厳寒のケーニヒスベルクで戴冠し、「プロイセンにおける王」(König in Preußen)フリードリヒ1世となった。この時以降ブランデンブルク選帝侯領をはじめとするホーエンツォレルン家の雑多な所領(ブランデンブルク=プロイセン)は王の下に統一され、近代国家としてのまとまりを形成していくことになった。 しかしフリードリヒ1世は名君とは言い難く、寵臣に決断を左右されるタイプの優柔不断な君主だった。1701年にヴィトゲンシュタイン帝国伯アウグストが侍従長に任命され、1702年にヴァルテンスレーベン伯アレクサンダー・ヘルマンが元帥となる。この2人は大臣ヴァルテンベルクの追従者であり、1710年まで3人で国政を壟断したため「三悪W」と呼ばれた(Wのドイツ語読み「ヴェー」はまた「苦痛」も意味する)。 1692年、異母弟のブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フィリップ・ヴィルヘルムと協定を結び、フィリップ・ヴィルヘルムの年金保障と引き換えにハルバーシュタットの統治権を放棄させた。また、1702年にオラニエ公位を継承したヨハン・ウィレム・フリーゾの継承権に異議を唱え、母を通してオラニエ=ナッサウ家の血を引いていたことから相続権を主張した。この問題はフリードリヒ1世の代では解決せず、決着はフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の治世の1732年までかかることになる。 1705年に王妃ゾフィー・シャルロッテは薨去したが、1708年に51歳のフリードリヒ1世は28歳年下のメクレンブルク=グラーボウ公女ゾフィー・ルイーゼと再婚する。しかしこの結婚は幸福なものではなく、ゾフィー・ルイーゼはストレスなどで健康が優れず、すぐ実家に帰った。1710年、フリードリヒ1世は「三悪W」の3人ヴァルテンベルク、ヴィトゲンシュタイン、ヴァルテンスレーベンを罷免した。 1713年2月25日、フリードリヒ1世はベルリンで崩御し、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が後を継いだ。
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